キャッシュレス還元

 消費税が昨年10月に消費税が10%(軽減税率は8%)に引き上げられときに,キャッシュレス・ポイント還元事業 (キャッシュレス・消費者還元事業)がスタートしました.今年6月までの事業ですが,現金以外のクレジットカードや電子マネー(SuicaやWAONなど)QRコード等で支払いをすると5%もしくは2%のポイント還元が受けられる制度です.

 実際にコンビニで100円のパンを買うと,軽減税率の8%が適応なので108円となるのですが,2%のポイント還元で還元額が2円となって106円になります.ポイント還元で,実質的な消費税が6%となって,昨年10月に消費税が引き上げられたにもかかわらず,軽減税率の適応とポイント還元で,実質的に消費税の負担が低くなったことになります.

現金とは,日本銀行券(日本銀行が発行する紙幣)と硬貨(政府が発行する貨幣)の2種類の通貨を指し示します.これらの通貨は「強制通用力」が法的に認められている「法定通貨」というそうです.一般に「お金」といわれるものです.

キャッシュレスとは,強制通用力のある「お金」を使わずに,Suicaのような電子マネーやクレジットカードなどを利用して支払いをすることです. モノとしての「お金」をなくすことで,「お金」を手元に置くこともなく,また「お釣り」の手間も省けますし,「お金」を数えるという作業もなくなります.情報化社会の中で,「お金の価値」が情報化されて,「電子的な情報」のやり取りだけで,「モノとしてのお金」を扱うことから解放されるので,さまざまなコストや手間などが低減されることになります.ただ災害等でインフラに障害が発生したときにキャッシュレスだと電子機器が使えないので決済ができない状況に陥る可能性があります.

 手元にSuicaとWAONカードがあり,最近は電子カード決済での買い物が増えました.通勤ではICOCCAを使って,多少の乗り越しには自動改札機でのICCOCA決済で済むようにしています.

カードをかざすだけで,財布からお札やコインを数えながら取り出して,場合によってはお釣りをもらって財布にしまう,という手間暇が省略できます.日頃の買い物は,ほぼキャッシュレスになりました.

安保

今日は、ちょうど60年前の1960年(昭和35年)1月19日にワシントンで新安保が調印された日です。

安保・・・あまり最近は耳にすることがないフレーズですが、子どもの頃に、テレビのニュースで見掛けた記憶があります。

60年安保・・・サンフランシスコで1951年(昭和26年)に調印された「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約(Security Treaty Between the United States and Japan)」が、1960年(昭和35年)にワシントンで調印された「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約(Treaty of Mutual Cooperation and Security between the United States and Japan)」の改訂に関しての反対運動ですが、残念ながら生まれる前の出来事です。樺美智子さんの死が象徴的に報道され、随分後になって学生時代に60年安保を題材にした小説を借りて読んだ記憶があります。調べると・・・奥浩平さんの「青春の墓標」でした。樺美智子さんに影響を受け、そして70年安保の大きな渦に巻き込まれた高野悦子さんに影響を与えたとされています。

 新安保締結から10年、10年間の期限での自動延長を阻止しようしたのが、いわゆる70年安保です。調べると昭和43年頃から昭和45年頃に安保闘争が続いていたようです。子どもの頃の記憶は、この70年安保になります。大学に進学すると学生運動に巻き込まれるのかなあ~と、子ども心に思っていた記憶があります。70年安保では、高野悦子さんの日記「二十歳の原点」が頭をよぎります。一本のカーネーションが描かれていますが、これは「青春の墓標」を著した奥浩平さんが睡眠薬を服用して自殺した時に、手に一輪のカーネーションが握りしめられていたことに由来するのかもしれません。

高野悦子さんの「二十歳の原点」を読んだのは、17~8歳の頃だったと記憶しています。今でも手放さずに手許に置いています。そして、「二十歳の原点ノート」と「二十歳の原点序章」も借りて読んだ記憶があります。

二十歳の原点は3年前にNHKで取り上げられて、久し振りに読んでいます。

二十歳の原点_2017年2月10日のblog

四半世紀・25年の歳月

昨日・1月17日で、阪神・淡路大震災から25年の「とき」が流れたことになります。

25年・四半世紀の「ときの流れ」というのが、実際の歴史でどれぐらいになるのか・・・

太平洋戦争が終わったのが昭和20年、その25年後というのは昭和45年。1970年です。大阪で万国博覧会が開催されて、その6年前には東京でオリンピックが開かれています。25年の間に、敗戦、戦後、高度成長と、日本の歴史の中で、庶民レベルではもっとも目まぐるしい四半世紀だったのかもしれません。

1575年に長篠の戦いが織田信長・徳川家康連合軍と武田勝頼軍の間で起こりました。その25年後は1600年で関ヶ原の戦いです。この25年の間に、織田信長が覇権を握り、本能寺の変の後は豊臣秀吉が実権を握って天下統一して関白となって、秀吉の死後には徳川家康が地盤を固めて、そして関ヶ原の戦い・・・激動の戦国時代も、目まぐるしい四半世紀だったと思います。

幕末・明治維新の四半世紀にあてはめると、1853年に黒船来航、安政の大獄、桜田門外の変、尊王攘夷派が台頭して、薩長連盟が結ばれ、大政奉還、そして戊辰戦争の混乱と共に明治維新を迎えて、鉄道が敷かれて、郵便制度が出来、近代的な学校が出来て、高等教育機関も誕生し、そして西南戦争が1877年・・・これで江戸時代と決別したのかもしれません。1853年の黒船来航から25年後は明治11年・1878年で株式取引所が出来て、資本主義経済のスタートを切ったような年です。この幕末・維新の四半世紀も激動だったように思います。

・・・震災から25年、震災当日のことを2か月半後の3月31日に綴った文章が残っています。

 1月17日の未明、ひっくり返るような揺れの中に冷静に思考することもできず、恐怖感から、ただただ布団の中に身を横たえていました。曙光の気配さえなく、街灯も消え、ただ闇が支配していました。懐中電灯の備えもなく、ろうそくとマッチをようやく探し出してマッチをすった瞬間、薄暗い中に、ひっくり返った家具の中に横たわっていた自分を見ました。

 1月17日の朝、一番印象に残っていることは、なにごともなかったかのように東の空が明るくなり、曇り空の中に夜が明けたことです。自然な、あたりまえの出来事が、なぜだか不自然に感じ、そして、とても尊く、ありがたく感じました。

        人が こんなに つらいのに
            主よ
        海が あまりに 碧いのです。

         長崎 出津の海を望む丘の上の歌碑・遠藤周作

 私は神戸の西の端、明石海峡を挟んで淡路島を望む垂水区に自宅があり、本務校は神戸の東の端、芦屋に隣接する東灘区にあります。自宅の被害は、罹災証明書では一部損壊でしたが、本務校近辺は被害の甚大な地域で、傾いたビル、全壊した木造家屋が続いています。

 本務校が避難場所と遺体安置所となった関係で、生き残った方々と、いのちを失った方々(ご遺体)のお世話のため、2月末まではほとんど泊まり込みの毎日でした。いのちの重さを身体全体で感じました。教室の床に置かれたご遺体に安らかな表情はなく、髪の毛の中まで土埃にまみれ、体の一部を失い、鬱血で変色したご遺体を前にして言葉はありませんでした。静まり返った夜中に線香に火をつけながら、あるいは棺桶に釘を打ちつけながら、自分の中にいのちがあるということが、とても不思議に思えました。

 遺体安置所であったと同時に、避難所でもあったので、ずっと感傷的になっているわけにもいかず、食事の確保、トイレ・衛生面の配慮を、何もないところで工面せねばならず、死のstaticと生のdynamicの狭間で揺れ動いていたのが最初の1週間程でした。

 lifeという言葉の持つ様々な意味(いのち、人生、生活 etc.)を今回の地震で考えさせられました。いま、家屋やビルの取り壊しが春の日差しの中で進んでいます。家族を失い、自宅を失った方々にとって、<いま>と<これから>が、lifeを模索する時期です。

March 31,1995


        「沈黙の碑 長崎・出津の海を望む丘の上」

彼は誰時(かはたれどき)

今朝の神戸の日の出の時刻は7時6分でした。昨日までの10日間は日の出の時刻が7時7分で、1年でもっとも朝が遅い期間でした。ちなみに元旦の日の出の時刻は今朝と同じ7時6分・・・

 三ノ宮駅で降りて、職場まで約30分、日の出前の30分間を東の空に向かって歩くことになります。

 三ノ宮では、まだ闇に包まれていました。阪急電車の神戸三宮駅の駅ビルが、いつの間にか工事が進んでいました。

 三ノ宮から高架の北側をしばらく歩くと、二ノ宮になります。二宮神社の周辺には商店街が幾つかあって、まだ暗い中に商店街の照明だけが輝いていました。

 早朝から開店していた喫茶店、なんだか夜の光景のように見えます。

 しばらく歩くと、真っ黒だった空が、南東から深い青色に・・・ビルのエントランスの暖色系の照明とのコントラストが綺麗でした。

水平線の辺りがオレンジ色に・・・夜明けの兆しが見えてきました。彼は誰時の独特の光景が広がっています。

 信号待ちをしている1~2分で、空の青さが明るくなってきました。刻々と彩りが変わる時間帯です。

 住宅街の街頭・・・夜明け前の静けさの中で、歩みとともに明るくなっていくのが実感できました。

戦災記念資料室

 車の半年点検で、1時間弱、兵庫駅近辺で時間を潰しました。十日戎の時期でしたら、柳原蛭子神社まで行くのですが、もう13日、ブラブラしていると、兵庫図書館を見つけました。兵庫駅前のビルの2階です。

 郷土資料のコーナーに兵庫津の資料が結構揃っていました。

 図書館の一角に戦災記念資料室がありました。

 中には、戦災の被害にあったもの、戦時中のモノが並んでいました。これは空襲で中が焼けて空洞になった木だそうです

 空襲の熱で、曲がった一升瓶・・・

 30分余り図書館で過ごしてディラーに戻りました。

紫外線

 玄関脇の隙間に自転車を置いているのですが、自転車のカバーが太陽光の紫外線で、かなりボロボロになりました。先週の冬の低気圧の暴風で、風圧で破れ目がかなり拡大してしまいました。

 有機物質は、紫外線で劣化するのは仕方がないですが、かなり劣化が酷くて、急遽カバーを買いに行きました。自転車用ではなくて、オートバイ用の大きくて頑丈そうなのをホームセンターで選びました。

 これで数年は、自転車をしっかりと守ってくれることと思います。

enlightenment

enlightenment ・・・ 本来は、光が降り注ぐこと、光に照らされて明るくなることを指し示すような意味を持った言葉ですが、実際にはenlightenmentという言葉は、光に照らされて明らかになるような状態を抽象的に概念化したよな、啓蒙や啓発と言う訳がつくような意味でもっぱら使われています。

 本来は、物理的な光の照明(しょうめい)の意味を持っている言葉ですが、実際には、真理の光が射し込み悟るような意味としての照明(しょうみょう)という意味を指し示す言葉になっています。そして本来の照明(しょうめい)は、lighting が使われています。

 1年でもっとも日の出の時刻が遅い時期です。通勤途中は、まだ夜明け前、東の空が、まさにenlightenment・・・暁光で彩られています。深紫の空に、色温度の低いオレンジ色が忍び寄るような感じです。

 東の空が低い雲で覆われている時は、雲が曙光が照らされて、夜明けの兆しを感じるようなenlightenmentの世界です。 

 最近、今まで水銀灯だった街中の街頭が、LED照明に急速に置き換わっています。LED照明の光り輝く白色の光は、演色性も良く、照明(lighting)としての物理的な性能は申し分ないです。でも・・・白熱灯の放射光や、水銀灯のアークの眩さのような慣れ親しんだ情景は、LED照明には感じることができず、無機質的に、ただただ明るいだけのように感じてしまいます。

 一昔前までは、屋外照明は青白い水銀灯やオレンジ色の高圧ナトリウム灯、そしてトンネル照明は更に色温度が低くて演色性の悪い低圧ナトリウム灯でした。ある意味、暗闇や夜を演出するような独特の雰囲気があったような気がします。それが高効率の蛍光灯が現われ、さらにLED照明がとってかわっています。昼間と同じような光景が、夜も・・・

 気になって、放電ランプを探すと、意外に少数派となって、なかなか見つけることが出来ませんでした。やっと見つけたのが、道路照明の高圧ナトリウム灯でした。背景に、六甲山系の上の深青のッ夜明け前の空の色とのコントラストも絶妙です。

 阪急電車の高架下に水銀灯が残っていました。目には青白く映る光が、デジカメには緑として映ります。輝線スペクトル・・・

 光が織成す夜明け前の、街の貌を観察しながら、今朝も職場に向かいました。