伊予行き_3日目

 伊予行きの3日目…最終日です。今回の伊予行きの3つの目的のうち,一番の目的であった「坊ちゃんの足跡を辿る」が,伊予に着いてからアレコレと行先が膨れ上がった余波で,あまり廻れていません。昨日と一昨日で廻ったのは…

・ターナー島
・松山中学校跡
・道後温泉
・坊っちゃん列車

昨日,時間切れで廻れなかったのが…

・旅館「山城屋」跡(実際には城戸屋旅館)
・坊ちゃんの2つ目の下宿跡(実際には上野家の離れ座敷)

 ホテルの近くですので,最終日のチェックアウト前に,朝の散歩も兼ねて巡れば良いと思って取りやめたので,今日の朝一の予定です。

 3日目最終日,8月27日の予定は,

(a) 坊ちゃんが泊まった旅館「山城屋」跡を訪れる。
(b) 坊ちゃんが下宿した上野家の離れ座敷跡を訪れる。
(c) 河東碧梧桐の歌碑がある大蓮寺を訪れる。
(d) 斎灘沿いの国道196号線を海辺の景色を愉しみながらドライブする。
(e) 海城(お堀に海水が使われている)・今治城を訪れる。
(e) しまなみ海道・大島の亀老山の山頂からしまなみ海道を鳥瞰する。
(f) しまなみ海道・因島の白滝山の山頂の五百羅漢と展望を愉しむ。

 朝5時半過ぎににホテルを出て,まず向かったのが,松山三越の南側・大街道近くの「上野義方の離れ座敷」跡です。昭和20年の空襲で消失したそうで,現在は駐車場となっているとのネット情報を頼りに探すと…見つかりました。

 漱石自身が旧制・松山中学校で教鞭をとっていた時に住んでいた処です。正岡子規も明治28年の秋にしばらくこの下宿に滞在したようで,河東碧梧桐を介して高浜虚子と親交を深めた場所でもあったようです。雑誌「ホトトギス」にとって,原点とも言える処でもあり子規は此処で「俳諧大要」を書いたそうです。

 子規はこの下宿に漱石の別号であった「愚陀佛」を付けて「愚陀仏庵」と名づけたとのこと,「愚陀仏庵跡」として案内板がありました。

 次に,坊ちゃんが松山に到着して,しばらく滞在した旅館「山城屋」,実際には城戸屋旅館で漱石も泊まった旅館です。「愚陀仏庵」と「旧制松山中学校跡」の中間ぐらいに位置するのですが,なかなか見つけることが出来ません。番長小学校の南東近傍で,現在はピストロ「きどや」としてレストランの名前に使われていると言う情報を元に探したのですが…

 早朝で附近は誰もおらず,地図を頼りに結論付けたのが,この工事中の建物の囲いの中に「城戸屋旅館跡碑」も隠れているということです。

 帰宅して彼是ネットで調べたのですが,ほぼ間違いないように思います。この工事中の建物が,大城屋があった場所…

 坊ちゃん先生の勤めた学校と,最初に滞在した旅館,そして2度目の下宿…小説では距離感がわからなかったのですが,実際に訪れてみると,徒歩数分も掛からないような「スープの冷めない距離」の範囲内です。そしてお城のお堀もすぐ近くで,中学校の前に県庁があり,県庁と中学校の間に道後温泉行きの列車の線路があり,団子屋さんは,道後温泉駅の近くの当時の遊郭街の入口,道後温泉の湯壺と座敷も,団子も味わって,そしてターナー島は,伊予鉄道の終点・高浜駅の近くで港がある入り江附近の景色も…。

 小説「坊ちゃん」の舞台となった処を実感することが出来ました。今回の伊予行きの一番の目的が,3日掛かりで実現しました。

 松山が俳句王国で,ホトトギスの発祥の地であることは,今回の伊予行きの直前にうっかりしていました。

 「選は創なり」という虚子の姿勢は,私の「センス」研究の大きな原動力になったこともあり,虚子の足跡を辿れないか…と松山で探したのですが,愚陀仏庵で碧梧桐を介して子規と接触したという愚陀仏庵跡そして,通っていた旧制・松山中学校跡と坊ちゃんの足跡とオーバーラップする処以外はわかりませんでした。虚子は東京で活動していたので,松山には記念館もなく,虚子記念館は神戸の隣町・芦屋にあります。

 ホトトギスで虚子と双璧だった河東碧梧桐に関しては,松山の南,四国八十八札所のひとつ・浄瑠璃時の近くにある大蓮寺に滞在したことがあり,此処に歌碑があるとのこと…国道11号を南下して松山の市街地から10キロ程離れた荏原の大蓮寺に。

 お寺の入り口に大きな石碑…

 山川艸木悉有佛性(山川草木悉く仏性あり)…草木国土悉皆成仏」というお経の文句とは違い,、「人間ばかりでなく、この世のすべてのものは、尊い仏さまになる性質をもっている」という碧梧桐のフレーズです。明治43年の俳諧結社「金平会」の俳夏行に参加して、当時の温泉郡荏原村の大蓮寺で,この地の俳人を指導したそうです。

 斎灘沿いの国道196号線を今治に向かうために,松山の市街を通る必要があります。朝の通勤時間帯と重なって市街地は渋滞していました。勝山町辺りから,勝山山頂の松山城が見えます。

 国道11号で勝山の交差点,そしてお城の東を路面電車沿いに上一万の交差点を西に向かって,お城の北の平和通り…この通り沿いに愛媛大学と松山大学が並んでいます。愛媛大学は旧制・松山高校です。漱石が松山に居た時代にはまだ松山高校はなく,大正8年に四国で最初の旧制高校として全国12番目に設置されています。

 平和通りを西に向かってお堀端の本町3丁目の交差点で北上する国道196号に沿って,そのまま斎灘沿いを今治まで。

 斎灘沿いの海辺の景色を愉しみながら…

途中で,夫婦連れのようなお遍路姿を見掛けました。この道は遍路路でもあるようです。お遍路さんの姿と,道端の「へんろ」のさりげない道標を目にすると,別世界に迷い込んだような感覚に陥ります。

 そして今治の町,残念ながら今治の町を散策する時間的な余裕がないので,車でざっと巡るだけで,お城に向かいました。

 今治城は,慶長7年(1602年)に藤堂高虎によって築城された三重の堀に海水を引き入れた海城です。当時は瀬戸内海からお城のお堀へ直接船で入ることができたようです。

天守閣は復元されたもので,内部は鉄筋コンクリートです。

天守閣からは,今治の港,町並み,そしてしまなみ海道が一望できます。「戦うお城」というよりも,江戸期に入った慶長年間に,海上交通の要であった今治で能率的な都市経営を目指した「治めるお城」のような感じです。

 港から今治の町をざっと巡って,しまなみ海道の入口に向かいました。

 今治から最初の島が来島海峡を挟んだ大島になり,来島大橋が掛かっています。その来島大橋を渡る直前に来島海峡SAがあります。来島大橋と,しまなみ海道の南側を一望できます。

 結構多くの観光客が,しまなみ海道の眺めを愉しんでいました。

 しまなみ海道を今治から入った最初の橋が来島大橋です。

大島で降りて,標高308mの亀老山の山頂に向かいました。旅行ガイドブックによると,しまなみ海道が一望できる展望台があるとのこと。

 途中の展望台から,来島大橋と今治を眺めた風景です。

 そして亀老山の山頂からの眺めです。

 遮るものがないので,360度の展望が愉しめました。

 伯方・大島大橋を渡って伯方島。伯方島を通り抜けて大三島橋で大三島に至り,そして多々羅大橋です。 

多々羅大橋を渡ると生口島,そして生口橋です。

生口橋渡ると因島です。ここで高速を降りて,白滝山の山頂を目指しました。水軍城や洋らんセンター等のメジャーな観光地と違って,案内が少なく,途中で迷ってしまいました。ようやく駐車場に辿り着いて,山頂に向かいました。

標高220mで,駐車場まで車だったのですが,結構急な石段が続きます。

 山頂には観音堂があり,木製の展望台もありました。

 白滝山の山頂には五百羅漢があります。これは因島の柏原伝六が江戸・文政年間に神道・仏教・キリスト教・儒教の教えを一つに融合した新興宗教 「一観教」を編み出し,当時は因島に数千人の信者が居たそうです。柏原伝六は尾道の石工などを呼び寄せこの白滝山に石像作りを依頼しまし,柏原林蔵等の弟子が3年余りの歳月をかけて五百羅漢を完成させたそうです。

 白滝山の山頂には「恋し岩」があり,恋のパワースポットだそうです。

昔、気立ての優しい可愛い娘がいました。彼女は身体が大きく力の強い立派な若者と恋に落ち、結婚を誓いあっていました。そんな中、村に力士の一行が訪れ、力の強い彼を見た親方が一緒に上方に来ないかと声をかけ、彼女を説得して連れていきました。彼は立派な相撲取りになって迎えに帰ってくると約束し村を出ました。彼の言葉を信じ彼女は待ちましたが約束の3年を過ぎても彼が帰ってきません。彼女は捨てられてしまったのだと思い、海に身を投げてしまったのです。

立派になった彼が帰ってきた時には彼女はいませんでした。嘆き悲しんでいるとき身投げした彼女の化身が海辺に岩となって現れていることを知り、一人でその岩を背負って白滝山山頂の観音堂まで運んだそうです。

  『恋し岩』の切ない恋の物語より

 山頂の五百羅漢です。

白滝山の山頂からの眺めは360度の絶景でした。

 歌人の吉井勇は, 白滝山の山頂からの眺めの素晴らしさを…

 “白滝の山に登れば眼路広し 島あれば海 海あれば島”

 吉井勇は,与謝野鉄幹の主宰する「明星」に歌をに次々と歌を発表していた時期があり,鉄幹宛の書簡の中で,短歌が記されていた紙の署名「吉井いさむ」が鉄幹の朱によって本名の「勇」と直されていたことが昨年(2012年)に発見され,吉井勇は与謝野鉄幹が名付け親ということになります。

 帰路を考えて,まだ滞在したい思いを吹っ切って下山し,因島を後にしました。島内には,青いラインを引いた道があります。観光用の道路…と言う意味があるようです。

 因島大橋を渡って向島へ。

向島は,尾道観光の折に尾道からフェリーで渡ったことも,一般道の橋で渡ったこともあり,そのまま新尾道大橋で本州・尾道へ。

 この時点で午後3時,神戸の自宅まで,暗くならない前に自宅に辿り着くには,ギリギリかもしれません。尾道バイパスを経て福山西ICから山陽道に入って,布施畑ICが午後5時半頃でした。

 8月28日(3日目)は…

・歩数…12291歩(7.7km)
・消費カロリー…2749kcal
・燃焼脂肪量…57.6g

 *

 3日間の車の走行距離は960kmでした。

伊予行き_2日目

 今回の伊予行きは、

1. 松山 … 坊ちゃんの足跡を辿る
2. 大洲 … 寅さんの映画の舞台となった町を訪れる。
3. 松山城 … 江戸期からの12城のひとつを訪れる。

 2泊3日で、これらをゆったりと巡りながら、道後温泉に浸かって、スローな伊予へのお出掛けの予定でしたが、松山で観光パンフレット等を見たり、街中に俳句ポストがさりげなく置かれているのを見たりして…彼是と巡りたくなってしまいました。

結局2日目の予定が膨れ上がってしまって…

(a) 伊予灘沿いの国道378号線を、海辺の景色を愉しみながらドライブする。
(b) 伊予・愛媛県から豊後・大分に突き刺すように伸びている佐田岬を訪れる。
(c) 古い町並みのある保内の町を訪れる。
(d) 商家の古い街並みがある内子の町を訪れる。
(e) 松山で坊っちゃん列車に乗る。
(f) 旧・松山中学校跡を訪れる。
(g) 坊ちゃんが泊まった旅館「山城屋」の跡地を訪れる。
(h) 坊ちゃんが下宿した上野家の離れ座敷の跡地を訪れる。
(i) 路面電車で松山市内を巡る。

 過密スケジュールとなってしまったので,2日目の8月27日は朝6時過ぎにホテルを出ました。今治街道・国道56号線で伊予市に入って、国道378号線で伊予灘沿いを海辺の景色を眺めながら…

 伊予灘越しに見えるのは、青島…

伊予長浜まではJR予讃線が並行していますが、伊予長浜から予讃線は肱川沿いに大洲に向かいます。そのまま伊予灘沿いの国道378号線を走りましたが、伊予長浜からは絶景が続くような、崖と海岸線の中を走ります。

 佐田岬の根元付近…伊方原子力発電所の近くから西側佐田岬方面を眺めた写真です。伊予灘に面した佐田岬の北側の海岸線です。

 細長い佐田岬の中程にある大久展望台…白亜の展望台で、2階からは宇和海が眼下に広がります。遥かに大分県の佐賀関半島も望めました。細長い佐田岬を俯瞰できる展望台です。

2日目の8月27日は訪れる処がたくさんあるので、佐田岬の先端・西の端まで行くのは断念して、Uターンしました。次に向かったのは保内(ほない)です。

 保内は東洋紡の前身のひとつである宇和紡績が四国で初めての紡績工場として明治20年に操業を開始した地であり、また明治22年には宇和紡績の工場内で自家発電開始が開始され、これが四国で初めて灯った電灯の光になったようです。四国の文明開化の最先端の町だったようで、その名残として、明治期の繁栄を偲ぶような古い町並みが残っています。

レンガ塀が続く小径もありました。

 保内の町の北側にある裏山には段々畑が続いていますが、みかん畑の果樹園のようで、農業用のモノレールが民家の裏側にありました。

宮内川沿いの町並みと、裏山のみかん畑…保内の町並みの雰囲気はこんな感じの処です。

 国道197号線で八幡浜の町へ出て、新川・千丈側川沿いにさかのぼって、大洲街道・国道56号線で大洲の町へ。

 大洲は、大洲城を中心とした城下町です。映画「寅さん」の第19作「寅次郎と殿様」の舞台となった町です。今回の伊予行きの主目的の一つです。伊予の小京都です。

 かなり以前に放映された朝ドラ「おはなはん」の舞台でもあったようで、古い街並みが残っています。

「おはなはん通り」や「明治の家並」と名付けられた通りがあります。

 臥龍山荘に向かう路地も、風情のある光景です。

 大洲の一角に「ポコペン横丁」というレトロタウンがあります。

 「古き良き時代」を再現したような昭和の香りが漂う空間です。

そして大洲城です。数年前に復元された天守閣で、寅さんの映画には石垣しかなかったと記憶しています。寅さんが、大洲の殿様の末裔と出逢うのが、この石垣でした。寅さんの映画の中でも,この殿様との出逢いのシーンは大好きな場面で,「いつか大洲に…」と思っていた憧れの場所です。ちなみに第19話のマドンナは真野響子でした。そして殿様役はあらかん・嵐寛壽郎です。渥美清と嵐寛壽郎とのコンビネーションが印象的な映画です。

 復元された大洲城の天守閣です。

大洲藩は,どちらかと言えばマイナーな存在ですが,江戸初期は松山城主の藤堂高虎の所領でした。慶長13年(1608年)に藤堂高虎が伊勢に転封となった後に,大洲城主として淡路・洲本より脇坂安治が5万3千石の領主となり,大洲は,大洲城の殿様の所領となったようです。

 大洲は…土佐藩の郷士・坂本竜馬が脱藩後,自由人としての第一歩を踏み出したのが大洲であり,坂本龍馬の海援隊の「いろは丸」は,大津藩所有の蒸気船だったそうです。

 復元された天守閣は、外観は復元ですが、内部は鉄筋コンクリートであるケースが少なくないのですが、大洲城は、内部もしっかりと復元されており、今まで訪れたお城の中で、もっとも印象深いお城です。

 そして寅さんの映画で、殿様の住居としてロケが行われた「殿様の御殿」です。

 大洲は、お城がある古い街並みと、川を隔てて予讃線の大洲駅がある新しい町が分かれています。ちょうど播磨・龍野の町と似ています。その新しい大洲の町から肱川沿いの県道24号線を予讃線と並行して伊予灘へ向かいました。肱川沿いの風景も長閑な感じでした。

 そして往路と同じ伊予灘沿いの378号線を松山に向かいました。伊予灘の風景を愉しみながら…

 ホテルの駐車場に車を停めて松山市内観光…松山の路面電車一日券で、松山の市街地を巡りました。

 お城があり、お堀の近くに県庁があり,旧制中学も町の中心部にあるような町…港町・神戸で生まれ育ったので、城下町の風景に惹かれます。松山は路面電車も残っています。路面電車は観光と日常の交通手段として町に馴染んでいるようです。

 坊っちゃん列車乗るために、道後温泉駅に向かいました。ポイントを手動で切り替えて、ホームに坊っちゃん列車が入ってきます。

 坊ちゃん列車に乗車するには整理券が必要です。ワンマンではなくて車掌が居り、改札をしています。

 坊ちゃん列車の車内です。木製で、冷房がないので窓が開けっ放しです。振動は大きいですし、騒音も大きく、揺れもあって、おまけに車内は暑いです。

 でも…風情はありました。観光用としては物珍しくいて良いですが、毎日乗るには…ちょっとです。

 終点の松山市駅です。ここで坊っちゃん列車は方向転換をするのですが、全部手動です。

 松山市駅は、終端駅でした。

 終端駅で坊っちゃん列車と古いタイプの路面電車が並んだ光景です。

 路面電車からの車窓の風景です。

松山市役所に隣接するお堀端のNTTの敷地が旧制の松山中学があった場所です。坊っちゃん先生が赴任した学校です。大正時代に移転して現在は石碑が残っています。

 石碑の傍らには漱石の「わかるるや 一鳥啼きで雲に入る」

松山の町が夕照に輝く光景を路面電車の車窓から眺めながら…

 旧制・松山中学は大正時代…漱石の没後すぐ位に路面電車で3つ南の停留所「勝山町」近くに移転して,現在の新制高校・松山東高校です。大江健三郎の母校でもあるようです。

 グラウンドでは体育祭の準備をしていました。9月4日が運動会で,生徒たち自らが竹林で竹を取ってきて観客席風のスタンドの櫓を作っていました。教師らしい姿を見掛けませんでした。

 松山東高の最寄りの「勝山町」の停留所からホテルの最寄りの「大街道」の停留所は隣同士ですが,最後に路面電車に乗りました。 

 結局,

(d) 商家の古い街並みがある内子の町を訪れる。
(g) 坊ちゃんが泊まった旅館「山城屋」の跡地を訪れる。
(h) 坊ちゃんが下宿した上野家の離れ座敷の跡地を訪れる。

 この3つの予定が達成できませんでした。

2日目・8月27日は

歩数…16472歩(10.2km)
消費カロリー…2732kcal
燃焼脂肪量…600g

伊予行き_1日目

 2泊3日で四国の伊予・愛媛へ行きました。夏休みの最後の週の平日に漱石の小説「坊ちゃん」の舞台である松山の町を訪れることと,映画「寅さん」の第19作であり「寅次郎と殿様」の舞台である大洲の町を訪れることが目的でした。そして半月前の「出雲行き」で訪れた松江で,江戸期の天守閣が残っている松江城を訪れてお城に興味を持つようになって,江戸期からの天守閣が残る伊予松山城を訪れることも,今回の伊予行きの目的の一つに加わりました。

 出発の朝は…雨でした。それもかなり強い雨です。本州と四国を結ぶルートは3つあり,神戸から伊予だと,多少の距離・時間・料金の差はありますが,行きは淡路から阿波・徳島と讃岐・香川を経て伊予へ入るルートにしました。

 本州・神戸と淡路島を結ぶ明石海峡大橋を渡る時点では雨はまだ激しくなく,曇天が広がっているような光景です。

 淡路島に入って,淡路の北から南へと縦断する中で雨が本格的に降り始め,鳴門海峡大橋を渡って四国に入り,高松自動車道を西に向かう頃には,かなり激しい雨になりました。ワイパー越しの車窓の風景は墨絵の様です。

 この雨も,お昼過ぎには上がるという天気予報を信じて只管西へ…

 阿波・徳島から讃岐・香川に入って,そして伊予・愛媛に入る頃には愛媛県は大雨警報…激しい雨と走行する車のタイヤの水飛沫,そしてあたり一面は霧でかすんで,フロントガラス越しの風景は,まるで色のない世界です。

 途中で別子銅山に寄ろうかとも思っていたのですが,この天候ですので松山まで只管,嵐のドライブでした。

 高松道から今治小松道を経て松山道に入って松山に近づく頃には雨も小降りになりました。高速を降りて国道33号そして国道11号を通って松山の市街地に入りました。いよてつ・伊予鉄道の踏切で遮断機が鳴って…

 まず向かったのはターナー島です。小説「坊ちゃん」の中で教頭・赤シャツと画学教師・野だいこと3人で行った釣りでの場面に出てくる島の名前です。私は勝手に山の中の静かの池に浮かぶ島を思い描いていたのですが,実際には海…入り江の入り口付近の岩礁のような小島です。坊ちゃんもしばらく読んでおらず,伊予行きには坊ちゃんの本も携えていきました。

 あらかじめネットで検索していたのですが,現地附近に行ってもターナー島が何処にあるのかわかりませんでした。案内板もなく,仕方なく車を停めて歩いて探しました。そして工場の裏手に岩礁を見つけました。ターナー島のすぐ近くまで行くと説明の案内板がありましたが,附近の道路には道標のような案内板がなくて,観光名所ではないようです。

 まだ雨が残っていたので,次は道後温泉に向かいました。

坊ちゃん先生がこよなく愛した温泉です。松山に来るまでは松山市内だと思っていました。もちろん市内ですが,道後温泉は,少なくとも坊ちゃんが松山にいた頃は,松山市内ではなかったようです。今回の伊予行きの直前に買ったガイドブックでも,松山市内観光と道後温泉とは別に扱われています。ちょうど有馬温泉と似ているかもしれません(神戸の市街地と有馬温泉ほど離れているわけではなくて,隣接する町…という感じです)。

 「霊の湯」と「神の湯」の2種類があり,「神の湯」は400円ですが,「霊の湯」で個室での休憩と坊ちゃん団子付だと1500円です。坊ちゃん先生は個室で接待付のコースを選んでいたので,私も個室付が空いているかどうか訊くと,幸い空いていました。貸し浴衣に着替えて「霊の湯」へ向かうと貸切状態で,ずっと独り占めでした。

 個室の部屋は「坊ちゃんの間」の隣でした。接待の人が数人控えており,案内をしてくれたり団子を出してくれたり…坊ちゃん団子です。

 実際には,団子は,道後温泉に隣接する当時の遊郭街の入口の団子屋で食べていたはずですが…。団子を食べて涼んでいると陽が射してきました。

 隣の「坊ちゃんの間」を見学して…

 そして道後温泉駅と道後温泉の間の「道後ハイカラ通り」の散策…

 道後温泉駅です。

 車でホテルに向かいました。路面電車が走る町並み…なんか良い感じです。

 ホテルは大街道(おおかいどう)にあります。路面電車の「大街道停留所」の真ん前でホテルの向かいには三越百貨店があり,隣の隣は県庁があり,大街道自体が松山の繁華街であり,松山城へ向かうロープウエイの乗り場まですぐです。凄く立地が良い場所です。

 本来なら素泊まりで一泊1万円なのですが,8月最終週の平日で,直前に予約したので2泊で1万円を切るリーズナブルな料金で,普段利用するビジネスホテルよりもワンランク上の東急インのちょっと広々した部屋でした。以前,値段だけで決めて実際に到着すると,ビジネス旅館っぽい処だったことがあります。居心地を考えると,たまのお出掛けですから,少々高くてもワンランク上の部屋が良いです。

 車を駐車場に入れてチェックインして…まず松山城に向かいました。勝山という標高130mの頂上に天守閣があり,その周りに松山の市街地が広がっています。復元ではなくて江戸期からの天守閣が残っている12城のひとつです。お城マニアではないのですが,松江城を訪れてから,ちょっとお城が気になっています。お城というよりも,お城があった町も含めた城下町の雰囲気です。

 天守閣の内部です。

 そして天守閣からの眺め…お堀端の市役所前辺りを走る路面電車です。翌日に知ったのですが,坊ちゃん先生が赴任した中学校が此処にありました。 

 松山は…俳句王国です。街の中や路面電車の中に「俳句ポスト」がさりげなく設置されていました。

 次に松山の繁華街・大街道を散策しました。大街道のアーケード前の停留所で,「坊っちゃん列車」が信号待ちで停まっていました。

 「大街道」,そして松山市駅まで続く「銀天街」の2つのアーケード街が松山の繁華街の中心のようです。「大街道」の入口には三越と県庁,そして松山城があり,反対側の「銀天街」の入口には,いよてつ高島屋と松山市駅があります。

 第一日目は,伊予への雨の中のドライブ,ターナー島,道後温泉,松山城,そして大天街の散策でした。

歩数…11925歩(7.4km)
消費カロリー…2589kcal
燃焼脂肪量…472g

birthday

今日・8月25日は,チキンラーメンが世に出た日…チキンラーメンの誕生日です。

 安藤百福…世界で初めて商業的に成功したインスタントラーメンである「チキンラーメン」を開発した日清食品株式会社の創業者です。

 安藤は1950年代後半に自邸の裏庭に建てた小屋でインスタントラーメンの研究を始め,奥さんが天ぷらを揚げるのを見て,麺を油で揚げて乾燥させる「油熱乾燥法」を発明し,1958年(昭和33年)8月25日に世界に先駆けてチキンラーメンを発売したそうです。

 どんぶりに入れて湯を注ぐだけでおいしく食べられるチキンラーメンは人気食品となって,それまで「支那そば」「中華そば」と呼ばれていたのが「ラーメン」という呼び名が広まり定着したのはチキンラーメンが所以のようです。

 今年はチキンラーメン誕生55周年で,記念商品として「KINGチキンラーメン」が発売されました。

 8月25日のチキンラーメン誕生日には,チキンラーメンを買うようにしています。

 今日買うと…クーポン券がついてきました。

 これは,6年前に発売された「焼チキン」です。

そしてチキンラーメン誕生日・8月25日は私の誕生日でもあります。バースデーランチは,チキンラーメンでした。
 

美作国行き

 古代の日本には,ヤマト政権以外にも有力な勢力があり,北九州の「筑紫国」,山陰の「出雲国」,北陸の「越国」,北関東の「毛野国」そして瀬戸内海沿岸には「吉備国」が主な勢力でした。

 吉備国は,岡山県と広島県の東部,そして兵庫県の西部にまたがる国で,優れた製鉄技術を背景に,ヤマトと出雲と吉備の3大勢力であった時代もあり,古事記によれば加古川(現・兵庫県)が吉備とヤマトの国境だったこともあったそうです。製鉄技術は,その後「備前の名刀」として受け継がれ,「たたら製鉄」による「かんな流し」によって出来た千種川水系の河口付近の三角州と遠浅の海に,その後塩田が出来て,「赤穂の塩」となり,現在は埋め立て地となって工業地帯となっています。

 強大な吉備国は,5世紀の雄略天皇の時代にヤマト政権の支配下となり,7世紀の持統天皇の時代に吉備国は備前国,備中国,そして備後国の3国に分割され,更に8世紀に入って和銅6年(713年)には,備前国から美作国が分割され。美作国府が津山に置かれました。美作国にはヤマト政権と直結する部族が配置されたそうです。

 備前国から分割されて美作国が出来て…今年がちょうど1300年。今年・2013年は美作国建国1300年だそうです。

 昨日と今日,その美作国に行きました。美作市の作東にあるバレンタインホテルです。

1988年に、美作市の前身である旧作東町とフランスのセント・バレンタイン市が姉妹都市提携したことにより名付けられたそうです。「愛」をテーマにした公園の中にあり,2007年には「恋人の聖地」に認定されたそうです。

 恋人の聖地とは…特定非営利活動法人地域活性化支援センターが主催する「恋人の聖地プロジェクト」により選定されたデートスポットだそうです。主な場所は…

・北海道の旧・愛国駅 / 幸福駅
・東京都の六本木ヒルズ展望台
・新潟県の湯沢高原アルプの里
・石川県のLOVE&BEACH / サンセットブリッジ内灘
・愛知県の恋路ヶ浜と伊良湖岬灯台
・兵庫県の神戸ハーバーランド
・長崎県の伊王島 やすらぎオリーブ公園

 そして作東バレンタイン公園の作東タワーです。

 ここで結婚式を挙げた方々のメモリー…

中国道で佐用辺りから雨になって,その後ずっと降り続いています。部屋の窓からの眺めも,霞がかかったような風景です。

 部屋は,ベットルームが階段の上というセパレートタイプでした。

 夕食はホテルのレストランです。

その月に誕生日の人は,メッセージが置かれていました。

コース料理で,これが主菜です。

 そして今朝の5時半頃の部屋からの眺めです。朝靄というよりも,霧がたちこめたような部屋の景色です。

 シャワーを浴びて6時前に外を見ると,もやっとした光景で,小雨が降り続いています。

朝の散歩は断念して大浴場へ。

 入浴後に,クールダウンも兼ねて,傘をさして散歩することにしました。朝になって気温が上がった為か,高原のようなホテル一帯は霧に包まれたような感じです。

 木立の中に入ると…静かでした。小雨の音だけが耳に入ってきます。

 目に前の作東タワーさえも,霧にかすんだような感じです。

 備前の閑谷学校に行きました。江戸期には,幕府の昌平黌(校)以外に「学校」を名乗ることが出来ませんでしたが,足利学校と閑谷学校だけは別格で,学校を名乗ることができました。

 岡山城のお殿様は,藩士の武士の為の学校である「藩校」とは別に,庶民の為の手習所(寺子屋)を領地の各郡に設置したそうですが,財政上の理由から一カ所のまとめたのが閑谷学校です。藩立の手習所・寺子屋です。

 講堂は国宝に指定されています。今でも使われて,講義等がこの講堂で行われています。

 そして寄宿舎跡です。講堂とは人工の丘で隔たっています。火事で講堂が延焼しない為です。

 この寄宿舎跡は,明治に入って旧制中学校となり,戦後は新制高校の校舎として使われていたそうです。

 昭和天皇も,そして今上天皇の皇太子時代にも訪れ,お手植えの木が残っています。

 雨は…ずっと降り続いていました。

 帰路,日生で昼食を摂りました。

 日生の海の駅・五味の市です。

豆富

 「豆富」…一般には「豆腐」で,「腐」という字は「納屋の中で肉を熟成させる」ことが転じて「柔らかく弾力性がある」という意味があるそうです。しかし,とうふ料理の専門店では「豆が腐る」とも読み取れる「腐」の字を嫌って「豆富」と書く場合があります。

 とうふ料理の八かく庵では,この「豆富」の字を用いています。梅田の駅ビル店が私のお気に入りの店ですが,神戸・三宮にも店があります。ミント神戸(旧・神戸新聞会館)の8階にあります。今日は,職場の先輩とご一緒しました。

 おぼろ豆富…お替り自由で,2人で2回お替りをしてしまいました。

 豆乳…上品な量で,モノ足りなかったです。

 前菜盛合せ…芋蛸南京の芋かけ豆富,香魚もどき,そして豆富麺・豆乳麺のチャンプルです。

 豆富と黒胡麻麩の田楽…

鶏つみれと棒麩の豆乳グラタン

鱧の紫蘇巻き天婦羅

 そして主菜の,真蛸と芽ひじきの炊き込みご飯です。最初に横で炊き始めて,炊き上がりの間に,アレコレと味わっていました。

明日の金曜日から土日を挟んで,ちょっと遅い夏休みの6連休です。夏休み前の夜を,ゆったりと美味しい食事で…
 

夏の夕べ

 仕事から戻って,2階の西日のあたる部屋の室温計を見ると,気温38.5度で湿度が58%でした。閉め切った部屋に入ると,汗が…

 玄米の買い置きがなくなったので,車で神戸ワイン城に隣接するJAの直販所・「六甲のめぐみ」に向かいました。閉店間近…というよりも閉店して,レジも閉めていましたがお願いして,地産の「ヒノヒカリ」を玄米で3キロ。

 自宅に戻る途中で,麦茶も,もうないなあ~と思い出して,これも地産である「兵庫県産六条大麦」がブレンドされているモノを選びました。

 交差点で信号待ちしていると,はるか東の方に大きな「入道雲」が見えます。今年は夕方になっても積乱雲が発達せずに雲ひとつない快晴の日が多くて,発達して入道雲を目にすることが珍しくレンズを向けました。

鳥取行き

この春に鳥取道が開通して,「いつか鳥取へ」と思っていたのですが,夏になってやっと鳥取に向かいました。

 鳥取の県名の由来は,古事記や日本書紀の「鳥取造(ととりのみやつこ)」及び「鳥取部(ととりべ)」のようです。鳥取県は因幡国と伯耆国から成りますが,廃藩置県後の明治9年にいったん島根県に併合された後,明治14年に再び旧・因幡国と旧・伯耆国が鳥取県となった経緯があります。

 国道175号線で北上して滝野社ICから中国自動車道を走って,佐用から島根道で鳥取市まで。

 おおよその地図を頭に入れて,後はカーナビまかせ…,鳥取道を出て国道29号線(鳥取南バイパス)で鳥取の市街地を迂回して国道9号で千代川を渡って,旧山陰道の県道265号線で鳥取砂丘へ。 砂丘のすぐ近くの駐車場は500円ですが,道を隔てた砂丘会館に大きく「無料駐車場」と書いてありましたので,そちらへ・・・

 汗だくになるかと思ったのですが,砂丘では湿度が低いのか,それほど汗はかきませんでした。 

 歩いているだけで,靴に砂が入ってきます。

 目の前に「馬の背」という砂の丘…まさに砂丘です。

 風紋というのでしょうか,砂の上に独特の模様が描かれています。

 快晴の青空,そして真っ青な日本海,そして一面の砂丘の砂…非日常的な光景の真っ只中です。

馬の背の砂丘の頂から,砂浜まで降りました。

 footprint(フットプリント・足跡)…埼玉の三郷に住み,東京の池袋で働いていた時に,冬の松島を訪れたことがあります。真冬の北松島の砂浜を歩いていると,自分の歩いた跡に,延々とfootprintが続いていたシーンが思い出されました。その時と違って,今は真夏の陽射しが照りつける日本海の鳥取砂丘です。

 観光用のラクダ…

 鳥取城址へ向かいました。

 江戸期には因幡国を治めた鳥取藩・池田氏のお城です。山城で背後の久松山の山上に天守閣があったようですが江戸前期に焼失した後は再建されず,山裾の二の丸・三の丸が使われていたようです。現在は石垣のみです。

 「ふるさと」の歌碑がありました。尋常小学唱歌だった「ふるさと」の作曲者の岡野貞一の出身が鳥取市古市だそうです。鳥取教会で洗礼を受けたクリスチャンで,宣教師からオルガンの演奏法を習ったそうです。

 城内には鳥取西高校がありました。藩校の「尚徳館」が起源で,その後は県立鳥取一中だった沿革を持っています。お城の近くに鳥取県庁がありました。

 鳥取駅まで距離があるのですが,バス路線がわからないので,車を城址に停めて歩くことにしました。

 市役所から駅前まで商店街が続いていますが,駅から遠い処では,シャッターが閉じたままの店舗も少なからずありました。

 袋川を渡って駅に近くなると,商店街の雰囲気も変わってきました。

独特の商店街の様子で,歩きながらかなり,街風景の写真を撮ってしまいました・

 JR鳥取駅です。特急で神戸・大阪に乗り換えなしで結んでいます。

 駅の構内です

 大阪や神戸の観光案内が多かったです。

 車を停めた城址まで,帰りは市内ルートバスを使いました。100円均一料金です。

 鳥取道で途中,平福に立ち寄りました。

 宿場町の面影を残す平福ですが,それほど観光地化されておらず,自然な感じの町並みです。

 鳥取みやげの,すいかチューハイと二十世紀梨チューハイです。

 今回は白兎神社(はくとじんじゃ)に行きませんでしたが,ちょっと後悔しています。次回の鳥取行きは,白兎神社,白兎海岸,湖山池に立ち寄りたいです。