最果て・・・

古代・飛鳥時代の「大化の改新」において,新しい施政方針を示すために発せられた詔(みことのり)が「改新の詔」です。

 この詔は孝徳天皇が,大化元年(645年)に中大兄皇子や中臣鎌子らが,宮中で蘇我入鹿を暗殺して蘇我氏を滅ぼした「乙巳(いっし)の変」の翌年・大化2年(646年)の正月元日に発せられた詔です。

 この詔に「五畿内」の範囲を示す記述があるそうです。「およそ畿内とは、東は名墾(名張)の横河より以来(こちら側)、南は紀伊の兄山より以来、西は赤石(明石)の櫛淵より以来、北は近江の狭狭波(さざなみ)の合坂山(逢坂山)より以来を、畿内国とす」

 「赤石(明石)の櫛淵」というのは,海岸が櫛目のように出入りしているような地形となっている神戸市須磨区の一の谷辺りから垂水区塩屋辺りではないかという説が有力のようです。

 ちょうど鉢伏山の稜線が大阪湾に臨む海岸線まで続いており,この区間は古代は通行が困難で,古い山陽道は,鉢伏山の北側を迂回していたようです。現在もこの区間は,JR神戸線の複々線と山陽電車の複線,そして国道2号線は2車線(片道が1車線)が鉢伏山の稜線の崖と海岸の間を,ひしめき合うように併行しています。

 そしてこの稜線が,摂津国と播磨国との境目であり,五畿内と西国との境目となり,古代の飛鳥時代においては,この稜線の向こう側は,都からすれば「異国の地」のような感覚だったようです。

「赤石(明石)の櫛淵」の手前・・・五畿内の西の端となる「最果ての地」が「須磨」です。「須磨」の地名の由来として,畿内の「隅っこ」がなまって「すま」という地名となったという説もあります。

 JR神戸線・須磨駅のホームからの西側の眺めです。鉢伏山の稜線が海岸まで延び,この稜線までが「五畿内」で,この向こうは西国です。畿内の隅っこ・・・
 

 須磨は,平安時代になっても,京の都からすれば「最果ての地」だったようで,貴族の流刑の地でもあり,在原業平の兄である在原行平が光孝天皇によって須磨に流刑となって「松風・村雨伝説」があり,また源氏物語では政争に敗れた光源氏が一時蟄居したのが須磨であり第12巻帖が「須磨の巻」,そして第13巻帖が「明石の巻」で「明石の君」という姫も登場します。明石は,鉢伏山の稜線の向こう側が西国・播磨の国の明石郡となって,塩屋,垂水,舞子,明石の村々がありました。

現在は,電車や車で簡単に行き来できますし,私自身が西国・播磨国明石郡から五畿内摂津郡菟原(うばら)郡まで電車で通っています。

・・・須磨駅で,普通電車から快速電車の乗り換える時に,鉢伏山の稜線を目にして,この稜線の意味が歴史の中で大きく変わったのかなあ~とアレコレと心に浮かんできました。

 土曜日の兵庫城址の発掘調査現場の受付で頒布していた資料の中から,昨年出版された「大地に刻まれた災害地」という冊子を買い求めました。300円でした。兵庫城址で発掘された町屋の遺跡から,町屋一帯が火事で焼かれた痕跡も見つかったそうです。