Census

駅の自動改札にCensusに関するシールが貼られていました。

 ポストにインターネット回答の案内の封筒が入っていました。気になったのは、封もせずに、ポストに無造作に入れられていたことです。道路からCensusの封筒だということがわかる状態で、簡単に封筒の中のパスワードの書いた紙を覗き見たり、パスワードの紙自体を抜き取ることも可能な状態でした。プライバシーを尊重するような姿勢が見られないような扱いで、ポストに入っていました。調査員に、どのような指導をしたのか、徹底した指導をしているとは思えません。

 インターネットでの回答が9月20日までなので、今日、早速回答のためにCensusのサイトへ・・・

 所定の記号やパスワードを入れると入力画面が現われました。

 入力は簡単に終わりました。でもCensusの基本は、個別の訪問による全数調査が基本ではなかったかなあ~と、ちょっと疑問に感じました。それと9月20日までの回答なのに、9月下旬の仕事の状況を問う項目があります。インターネットでの回答においても、10月1日現在での実際の回答ができるように、回答の締め切りは、少なくとも10月1日にすべきではないかと感じました。

絹雲

今朝、いつものように出勤の準備をして玄関を出て、駅に向かっていると・・・途中で東の空一面の絹雲を目にしました。朝日の中で柔らかく輝いていました。

駅前辿りつくと、日の出直後の曙光と空高い絹雲の入り混じった東の空が綺麗でした。まだ街頭が点いていました。街灯の光源は高圧放電ランプではなくてLEDに替っています。

斜陽

 仕事帰り、電車を降りて垂水駅を出ると、西の空が斜陽で、黄昏色に輝いていました。

 しばし足を停めて、この自然が織り成す光景にレンズを向けました。

 今朝、駅に近づくと、一本前の電車に急げば乗れるタイミングでしたので、速足、そして改札を入ってからは走って階段を上りました。今日の脈拍計のエクスサイズを見ると、無酸素の1分は、この階段を駆け上った時で、有酸素は、ぞの前後の速足と走った時のものだと思います。脂肪燃焼モードが1時間22分でした。

こころのバランスは、仕事中は、昼休みと4時前のホッと一息ついたとき以外は、ほぼエキサイト状態、今日もしっかりと仕事をしていたようです。

御大葬の日

 今年は、7月に、
・雑司ヶ谷の漱石の墓、

 8月に早稲田の

・漱石生誕の地
・夏目坂通り(硝子戸の中)
・漱石山房通り
・漱石終蔦の地

 そして本郷、文京区の

・三四郎池(東大本郷キャンパス)
・教鞭をとった旧・一高(現東大弥生キャンパス)
・団子坂(菊人形を見に行った)
・猫の家(「吾輩は猫である」執筆当時の借家)

 8月には伊予で小説「坊ちゃん」の舞台、

・道後温泉
・伊予鉄道
・ターナー島
・きどや旅館跡(小説では山城屋)
・旧制松山中学校跡
・愚陀仏庵跡(坊ちゃんの下宿先)

 ・・・漱石の足跡を巡りました。

 今日は、明治天皇の御大葬の日(大正元年1912年)であり、そして、乃木大将が 妻・静子と共に殉死した日でもあります。

漱石は、小説「こころ」の中で、乃木大将の死について触れています。御大葬の日、乃木大将の自刃を知らせる号外を目にした時の心境を、先生の目を通して語り、小説「こころ」の主人公である「私」に長い長い手紙・遺書を送っています。

「私は殉死という言葉をほとんど忘れていました。
平生使う必要のない字だから、記憶の底に沈んだまま、
腐れかけていたものと見えます。妻の笑談を聞いて
始めてそれを思い出した時、私は妻に向ってもし自分が
殉死するならば、明治の精神に殉死するつもりだと
答えました。私の答えも無論笑談に過ぎなかったの
ですが、私はその時何だか古い不要な言葉に新しい
意義を盛り得たような心持がしたのです。

 それから約一カ月ほど経ちました。御大葬の夜
私はいつもの通り書斎に坐って、相図の号砲を聞き
ました。私にはそれが明治が永久に去った報知のごとく
聞こえました。後で考えると、それが乃木大将の永久に
去った報知にもなっていたのです。私は号外を手に
して、思わず妻に殉死だ殉死だといいました。

 私は新聞で乃木大将の死ぬ前に書き残して行った
ものを読みました。西南戦争の時敵に旗をられて以来、
申し訳のために死のう死のうと思って、つい今日まで
生きていたという意味の句を見た時、私は思わず指を
折って、乃木さんが死ぬ覚悟をしながら生きながらえ
て来た年月を勘定して見ました。西南戦争は明治十年
ですから、明治四十五年までには三十五年の距離が
あります。乃木さんはこの三十五年の間死のう死のうと
思って、死ぬ機会を待っていたらしいのです。私は
そういう人に取って、生きていた三十五年が苦しいか、
また刀を腹へ突き立てた一刹那が苦しいか、どっちが
苦しいだろうと考えました。

 それから二、三日して、私はとうとう自殺する
決心をしたのです。私に乃木さんの死んだ理由が
よく解らないように、あなたにも私の自殺する訳が
明らかに呑み込めないかも知れませんが、もしそうだと
すると、それは時勢の推移から来る人間の相違だから
仕方がありません。あるいは箇人のもって生れた
性格の相違といった方が確かかも知れません。私は
私のできる限りこの不可思議な私というものを、
あなたに解らせるように、今までの叙述で己れを
尽したつもりです。

 私は妻を残して行きます。私がいなくなっても
妻に衣食住の心配がないのは仕合せです。私は妻に
残酷な驚怖を与える事を好みません。私は妻に
血の色を見せないで死ぬつもりです。妻の知らない
間に、こっそりこの世からいなくなるようにします。
私は死んだ後で、妻から頓死したと思われたいの
です。気が狂ったと思われても満足なのです。

     「こころ」夏目漱石 青空文庫より
             http://www.aozora.gr.jp/

万葉岬・小赤壁~県道718号

 今朝は第二神明、加古川・姫路バイパスを経て相生まで行き、帰路は播磨灘沿いをドライブ。国道250号を室津に戻る途中で「万葉岬」という標識を目にして細い山路を上ると、相生湾の東・金ケ崎の高台から相生湾~播磨灘を見下ろす展望を愉しむことが出来ます。

「縄の浦ゆ背向に見ゆる奥つ島漕ぎ廻る舟は釣しすらしも」
山部赤人、万葉集巻三。

「縄の浦」は相生湾、「奥つ島」は「沖つ島」で「鬘島(かずらしま)」・・・通称おわん島のことだそうです。 

 岬の高台まで漁船のディーゼル音が豪快に聞こえてきます。

そして万葉岬の高台の草叢からは虫の音が・・・

万葉岬の草叢から聞こえる虫の音

 そして目に前には家島諸島が横たわっています。

 250号線を東に向かって・・・住栄丸という民宿脇から金ケ崎越しに家島・・・

 大浦海水浴場を超えて、小さな入り江越しに家島・・・

 そして室津の港です。

 道の駅「みつ」から綾部山梅林のある鷺崎方面・・・

 更に国道250号線を東へ・・・御津から網干、飾磨、白浜、八家の交差点で「小赤壁」という標識にカメラのマークがあり、絶景のポイントがあるのかと、立ち寄りました。海に面した小赤壁公園内に展望台がありました。家島が西に見えます。

 的形、大塩を経て高砂市内へ。国道250号線は天川の左岸、曽根の交差点で左折して天川をさかのぼって、姫路バイパスの高架下を西に向かうのですが、曽根の交差点を直進しました。曽根の交差点を終点とする県道718号線・明石高砂線(旧浜国道)を走ることにしました。県道718号は山陽電車と並行して高砂の町並みを縦貫します。

 加古川を渡って、浜の宮、播磨町、西二見・・・南二見の人工島の入り口辺りまでは、私のサイクリングコースです。そして、東二見、江井ヶ島、藤江、西新町を通って明石の市街地へ。播但汽船前の交差点を北上して100mほどで、県道718号の起点である大明石町の交差点ですが、その100mは通らず、そのまま直進、国道28号線経由で自宅に戻りました。

 行きは相生まで1時間ほど、帰路は海岸線を写真を撮りながら4時間ぐらい・・・朝のドライブでした。

明石点描

 夏は、毎朝のように出勤前に自転車に乗って汗をかいていましたが、9月に入ってからは自転車に乗るには週末だけになってしまいました。今朝も自転車で海岸線を西に向かって、舞子公園、大蔵公園、明石の市街、林崎海岸から海岸線沿いを走る県道554号線(姫路明石自転車道線)を通って江井ヶ島海岸へ。

 更に西に走って、魚住にある茨木酒造に隣接する田んぼがたわわに稲穂が実っていました。

 そして二見の漁港に隣接する漁村の面影を残す住宅地の一角に、漁業用の浮きが山積された漁港の光景・・・

 西二見でUターンして魚住・西岡の「瓦の壁」。瓦産業が盛んだった頃に、明石瓦を一枚一枚を丁寧に積み重ねて完成した壁です。

 明石の街中の、シャッターが閉まった酒屋さんです。

 シャッターには貼り紙があり、もう閉店してしまったようです。立ち呑みができる酒屋さんでした。

 明石の市街地、旧西国街道沿いには、雁木造(がんぎづくり)のように歩道に屋根が続く商店街となっています。

 8月に訪れた伊予・大洲の古い町並みにも残っていました。数年前に訪れた越後・長岡には、雪よけの、雁木造の商店街が残っています。明石は、雪よけというよりも、雨の日でも傘が要らない為の屋根・・・

 そして大蔵海岸、お昼近くになって気温が上がって、青空が・・・

 今朝の走行距離は、39キロ、帰宅してシャワーを浴びた後は、すぐに汗が止まりました。季節は、もう秋・・・

 

峠と畑

 手元に福永武彦訳の現代語訳・古事記があります。

 古事記の時代には万葉仮名が用いられていました。漢字の一字一字を、漢字本来の意味に関係なく日本語の一音節を当てるのが万葉仮名です。日本古来の言葉である「ヤマトことば」を、そのまま表現していました。

 その後、漢字本来の持つ意味を訓読みで「ヤマトことば」を表すようになったようです。しかし中国にはない日本独特の文化や慣習や事象を表す時に、中国の漢字ではカバーできない「ヤマトことば」が存在する時に、仮名で表現する方法と共に、元々の中国の漢字にはない、新しい漢字を使うという道があります。それが・・・国字です。

 中国の北方の漢や呉では水田がなかったのか、「たんぼ」と「はたけ」の差異がなく「田」という漢字しゅかありません。それに対して日本では「たんぼ」と「はたけ」は明確に異なり、そのことが「田」ではない「国字」である「畑」につながったようです。古代の焼き畑農業の名残なのか、「火」と「田」を組み合わせた国字です。

 峠、この概念が元々中国になかったのか・・・職場の先輩に訊いてみました。広大な中国では、徒然「峠」のような地形も至る所にあったかもしれないが、峠を越えると他民族の地で、峠を越えて行き来することが少なかった為かなあ~というアドバイスをもらいました。ちなみに中国で「峠」のような地形を指し示す語彙として「山口」があります。日本語の「山口」は、山に入る入り口・・・というようなニュアンスの語彙ですが、中国語の「山口」は、どうも、山の頂と山の頂の間にある尾根の窪みを指し示すようです。

 英語では単に’pass’です。強いて言えば「山路」でしょうか?

 ・・・峠を超えると隣の村、或いは隣の国で、文化も慣習も違う、という峠には地理的だけではない「障壁」となっていた時代が近代に入るまで、ずっと続いていたように思います。中国には、そのような「峠を越えると・・・」というようなニュアンスや感性を表現する言葉としての「峠」という概念を必要としなかったのかもしれません。

 国字って、これまで「日本で作られた独自の漢字」としてしか捉えていませんでしたが、国字で指し示す事象や感性等々自体が中国になく日本にはあった・・・これが国字誕生の理由なのかもしれません。

タギツヒメ

先々週の仕事帰りに、アメノオシホミミを祀っている二宮神社に立ち寄りましたが、今朝はタキツヒメを祭っている三宮神社に立ち寄って職場に向かいました。

 JR神戸線の元町駅で降りて、大丸神戸店前のスクランブル交差点、早朝は車も人影もなく、ほんとうに閑散としていました。

 三宮神社・・・生田神社の八柱の裔神を祀った生田裔神八社のひとつで、生田神社の旧西国街道に面した大鳥居の近く、トアロードの南端になります。

 祭神のタギツヒメは、宗像三女神のひとりで、宗像大社では辺津宮に祀られています。宗像三女神はアマテラスとスサノオの誓約において、スサノオの物実(ものざね)から化生したのが、タキリヒメ、イチキシマヒメそして三宮神社で祀られているタギツヒメです。ちなみに最初に化生したタキリヒメは一宮神社に祭られており、2番目にに化生したイチキシマヒメは四宮神社に祭られています。

 三宮神社の東北数十メートルの処、旧西国街道沿いに生田神社の大きな鳥居があります。この生田神社の祀られているのがワカヒルメノミコトであり、アマテラスの妹神とも言われています。

 早朝の三宮センター街も、ほとんど人影がありません。この光景が好きで、時々早朝の三宮センター街を歩きます。

 三宮センター街の東端は、フラワーロードを挟んでそごう神戸店となります。江戸末期に生田川の付け替え工事をする前には、此処に生田川が流れていました。生田川の右岸(手前)が八部(やたべ)郡で、左岸(向こう側)が菟原郡だったようです。