高槻城

 半月ほど前に高山右近の福列の報に接して、その週末に高槻に行こうと思っていたのですが、強大な寒波襲来で・・・一週間経った今日、高槻に向かいました。

 阪急やJR、新幹線で高槻を通過することはあっても、今まで高槻で降りたことはありませんでした。通勤で乗る電車が高槻行きのことも少なくないです。

 阪急の高槻駅を降りて、南に歩いて城北通りを抜けると、カトリック高槻教会がありました。大きな高山右近記念聖堂が目を惹きます。

 この教会は戦後、キリシタン大名だった高山右近を記念して戦後に創立されたものです。教会の敷地内には高山右近の像がありました。

 カトリック高槻教会から南に数十mほどの処にある高槻商工会議所の敷地内に「高山右近天主教会堂址」の石碑が建っていました。

 高槻城は、この石碑のある南側一帯だったようです。明治維新で取り壊されて、その後陸軍第4連隊の駐屯地となって、戦後は昭和22年に高槻市立第一中学校、昭和26年に大阪府立島上高等学校(統合によって現在は大阪府立槻の木高等学校)となっています。本丸跡が、この槻の木高校になるようです。

高槻市立しろあと歴史館に向かいました。ボランティアの方が丁寧に30分以上説明してくださいました。江戸初期は転封で城主の入れ替わりがありましたが慶安2年(1649年)に永井氏が城主になって幕末まで続いています。

 高槻城址の北隣に野見神社があり、その摂社に永井神社がありました。永井氏の最初の高槻城主となった永井直清を祀っている神社で、9代目となる永井直進が創建したそうです。

 高山右近の父・高山友照は元亀4年(1573年)に城主となって、その後右近が城主となって天正13年(1585年)に明石・船上城へ転封となるまで12年間が高山氏の城主時代となります。天正4年(1576年)に教会を建設して、その後、領内には20ヶ所の教会、当時の高槻領の60%以上、1万8千人もの人々がキリスト教徒だったそうです。 

 

友達とつながる力

昨晩からガラス窓越しに雨音が聴こえて、週末の今朝は朝から雨・・・午前中は2時間続きのCADの実習が2クラスあって、CADのコンピュータ室に4時間缶詰でした。授業が終わると午後から出張で、JR新長田駅で降りてバス停に向かうと・・・市バス3系統のバス停がありません。プリントアウトしたバスの時刻表を確認すると「JR新長田駅」ではなくて「地下鉄長田駅」になっています。勘違いしていました。

 時間の余裕がないので、地下鉄で湊川公園駅まで行って、そこから神戸電鉄で長田駅へ。神鉄長田駅から徒歩ですぐです。 少し遅くなってしまって、学校に着いて受付をしている時にチャイムが鳴り始めました。
 

 最初に3年生のクラスに入りました。題材は「ほんわかことばのたのみ方・ことわり方」です。最初にモデルリングをして、それを見た子どもたちに気付きを発表させていました。「ほんわかことば」と「イガイガことば」について考えさせていました。

次に2年生のクラス。題材は「友達となかよくあそぼう」で、遊ぼうと誘う人と誘われる人、アドバイスする人と3人1組でロールプレーをしていました。目標は「なかよし名人になろう」だそうです。

 そして1年生のクラス、題材は「『ありがとう』を伝えよう」です。グループ毎にありがとうカードを書いて渡すロールプレイです。

 1年生のクラスで、ロールプレイが終わった後に、どんな気持ちだったかをみんなの前で発表していました。

 授業が終わって・・・再び3年生のクラス、帰る準備をして終わりの会です。

 クラスの移動の途中で、4年生や5年生、6年生の教室も外から見ましたが、児童数の関係で、1~3年は各学年2クラスで20人程度、それに対して4~6年生は各学年1クラスで40人、教室がいっぱいでした。

 公開授業の後は、3~4年の中学年の分科会に参加しました。そして全体会で関西学院大の先生の講演が終わる頃には、外は真っ暗でした。雨が降り続き・・・帰りはバスで鷹取駅まで。

春の気配

 元旦の「初日の出」の時刻が7時6分、その後1月上旬には「日の出」の時刻が7時7分と一年でもっとも遅くなって、朝の出勤時間帯には、職場に近づくまで真っ暗でしたが。1月も終わりになって今朝の「日の出」の時刻は7時00分、出勤の時間帯には、東の空が茜色に輝き始めて、歩きながら空のグラデュエーションが楽しめます。

 先週末からの寒波の影響で、今週のはじめには完全に凍っていた水たまりが、今朝は氷が張ることもなく、水面にはさざ波が・・・

 6日後の2月3日は節分、そして立春、2月8日が旧暦の元日で今年は年内立春となります。もっとも寒い大寒の時期で、沖縄にはじめて雪をもたらした記録的な寒波が到来しましたが、街路樹に近づいてよく見ると、堅いつぼみが膨らみつつあるのがわかります。

劇あそび

 今日は午前中は2年生のCADの実習があり、実習後に出張、公開保育と実践報告がある研究会に参加するために阪神電車で深江駅へ。久し振りに深江駅で降りました。上りは従来の地上駅でしたが、下りは高架工事が進行中で、既に半分完成した高架を使った高架の上のホームでした。駅が上りと下りで完全に分かれていました。

 1時からの公開保育でしたが、到着したのが10分前で、園児は園庭等いたるところで走り回っていました。テラスでは何人かの園児が戦っていました。それぞれ何かに扮しているようです。

 チャイムがなるわけでもなく、1時10分ぐらいになると先生の声掛けで園児が遊び道具を片付けはじめていました。そして手洗い場で手洗いが始まりました。

 タオルはポケットやカバンではなくて、各クラスごとにタオル掛けがあって、マイタオルで手を拭いていました。

 しばらくすると各クラスごとにピアノの音が鳴りはじめて・・・公開保育が始まったようです。

 研究会の参加者は、クラスの中で園児と一緒に参観する方々と、テラスから参観する方々と・・・園児よりも研究会の参加者の方がずっと多かったようです。

 パイロット園に指定されて、コミュニケーションをテーマにして、各クラスで劇あそびが始まりました。ピアノにあわせて子供たちがいろいろな仕草をしながら歩き回ったり、歌を歌ったり・・・。このチューリップ組は、洞窟の中を探検するような絵本か童話に基づいたストーリーの劇遊びでした。

 約1時間、6クラスをざっと見て廻りました。小学校以上と違って教科書がないので、教師が教案を用意して、子供たちとアドリブを交えて劇あそびのストーリーの中に誘っていました。ピアノを使って歌を歌わせたり、話で子どもたちに想像・空想を共有したり、1時間があっという間に過ぎてしまいました。

 最後は各クラスで園児に荷物を持たせたり上着を着せたりして、その間に園庭には保護者の方々がお迎えに・・・園児たちは園庭の隅で挨拶をして、先生と握手をして保護者と一緒に帰っていました。

椎名町

 以前勤めていた池袋から、西武で一駅隣に椎名町駅があります。一度この駅で降りて写真を撮った記憶があるのですが・・・どうも見つかりません。いつ訪れたのかも記憶があやふやです。この十数年以内でしたらデジカメで撮って写真データはパソコンに保存されています。それ以前でしたらフィルムになるのでネガから探すのは大変です。

 椎名町駅で降りて写真を撮ったはずですが、でも、その記憶も、ちょっと考えるとあやふやなような気がします。もしかしたら池袋に勤めていた頃に訪れたのかもしれません。その頃はカメラを持っていなかったので、今のように写真を撮る習慣がありませんでした。

 椎名町駅の北に、以前、帝国銀行の椎名町支店がありました。昭和23年(1948年)1月26日・・・つまり今から68年前の今日、この銀行で起こった事件が「帝銀事件」です。幼い頃の記憶として、帝銀事件のことが時々、青酸カリ、テンペラ画家、冤罪という言葉とともにニュースで報じられた記憶が残っていました。何かの時に、椎名町駅を降りて、北口を歩き回り、北口すぐの処にあった信用金庫を目にして、此処かなあ~と思いながらも、更に歩いて、確か地図ではこの辺りだったけど・・・と神社の辺りをうろうろした記憶があります。

 今調べると、帝国銀行は三井銀行と改称して、現在の三井住友銀行となっています。そして帝銀の椎名町支店は、事件の2年後に閉鎖されて現存しないそうで、長崎神社の近くだったようで、私がうろうろして探した辺りにあったようです。

 犯人として逮捕されたテンペラ画家は、青酸化合物のような毒物の知識を持っていなかったようで、事件を起こすことは不可能だったようです。当然、旧・日本軍の関係者の関与が疑われたようですがGHQから旧・日本軍の関係者への捜査中止が命じられたという経緯があるようです。

 冤罪の可能性も大きいように感じますが、死刑が確定したテンペラ画家は獄中で95歳で亡くなり、その後遺族が再審請求を続けていましたが、その遺族も3年前に亡くなって、請求人死亡を理由に再審請求審理手続き終了となったようです。新たに2か月前に他の遺族が第20次再審請求を申し立てている状態です。

 椎名町を訪れ、帝銀事件の跡を探した記憶、その椎名町駅で降りたのは、幼い頃にニュースで報じられた青酸カリ、テンペラ画家、冤罪という言葉を辿りたいという感情だったように思います。

椎名町で撮った写真・・・後で見た記憶があるので、パソコンのハードディスクの中を探したいと思います。なんか・・気になります。

冬の朝

 今朝、起床直後に目にした机の上の室温計は2度を表示していました。寒いので、一駅手前で降りて夜明け前の30分を歩くのは止めました。

 先週金曜に一駅手前の三宮駅で降りて歩いている途中の新生田川辺りで目にした神戸製鋼の神戸製鉄所の煙突から、夜明け前の冬の空に静かにたなびく煙です。

 そして今朝、最寄り駅の灘駅で降りて、駅前のマンション前で見た一面が凍った水面・・・

 中原中也の詩に、冬の朝の様子を表現したものがあります。

残んの雪が瓦に少なく固く
枯木の小枝が鹿のやうに睡い、
冬の朝の六時
私の頭も睡い。

烏が啼いて通る――
庭の地面も鹿のやうに睡い。
――林が逃げた農家が逃げた、
空は悲しい衰弱。
     私の心は悲しい……

やがて薄日が射し
青空が開く。
上の上の空でジュピター神の砲が鳴る。
――四方の山が沈み、

農家の庭が欠伸をし、
道は空へと挨拶する。
     私の心は悲しい……

中原中也、「冬の明け方」、在りし日の歌より

 手袋をしていても指が悴んで、手袋の手をポケットに入れて足早に職場に向かいました。

 

相撲道

 久し振りに大相撲をテレビで観戦しました。

 今は、横綱が3人、大関が4人というのを今日はじめて知りました。横綱3人がモンゴル出身で大関1人もモンゴル出身で、他の3人の大関が日本人で、その大関の一人が琴奨菊。 この琴奨菊が現在一敗で優勝候補の先頭・・・というのはニュースで知っていました。風呂上りにテレビをつけると関脇・栃煌山と平幕・豊ノ島の勝負で、豊ノ島が負けて優勝戦線から脱落というアナウンスで、次の三役揃い踏みの後の土俵が琴奨菊というので、そのまま見入ってしまいました。

 横綱の白鵬と日馬富士は知っていましたが、鶴竜という横綱は「?」です。大関の豪栄道と稀勢の里は知っていましたが、琴奨菊の名前は、今場所の活躍で名前は聞いていましたが、見るのは初めてだと思います。もう一人の大関・照ノ富士の名前も記憶にはなく、三役揃い踏みにもいませんでした。後で確認すると途中休場していました。

 制限時間いっぱいを過ぎても「待った」がありましたが、久し振りに大相撲をテレビで観戦して、制限時間前でも気合で立合えば良いのにと・・・と思ってしまいました。

 大相撲のテレビ観戦をよく楽しんでいた頃には、麒麟児(北陣親方)と富士桜(元・中村親方)の取り組みでは時間前立ち合うことも多くて相撲の醍醐味を感じていましたが、久し振りにテレビで見る立ち合いは、制限時間いっぱいまで立ち合う素振りもないのには、ちょっとガッカリです。

 小泉純一郎総理大臣が、土俵に上がって直々に内閣総理大臣杯を渡し「よく頑張った。感動した!」と言った時も、テレビ観戦していたような気がします。調べると・・・内閣総理大臣杯を渡した相手は貴乃花で、平成13年の夏場所、今から15年前でした。

 千秋楽の結びの一番、横綱・白鵬の取り組みは、今場所最後の横綱同士の対戦とは思えないほどあっけなく終わって・・・相撲道という「道」を精進する気合が見たかったなあ~と感じました。

高山右近

地元の神戸市垂水区は、昭和16年(1941年)に神戸市(摂津国)に編入されるまでは明石郡垂水町(播磨国)で、現在の神戸市西区と共に明石の一部でした。

 現在の人丸にある明石城は江戸時代に入ってから小笠原氏によって築城されたものです。それまでは林崎にあった船上城が明石のお城でした。船上城は、秀吉によって高槻城主から転封となった高山右近が、それまでの明石氏の枝吉城に入城した後に、林崎の地に船上城を築城して城下町(現在の林崎)をつくったようです。

 キリシタン大名だった高山右近は、僧侶がいなくなって空き家となった宝蔵寺を教会として外国人宣教師が常駐し、現在の林崎港は、堺に行き来する瀬戸内海航路の貿易船の中継港だったそうです。垂水の転法輪寺にもマリア灯篭があり、キリシタン大名だった高山右近の痕跡が残っています。

 高山右近はバテレン追放令によって、信仰を守ることと引き換えに領地と財産をすべて捨てることを選んだ為に明石の領主を2年程で追放処分となって、小西行長に庇護されて小豆島に隠れ住んだようです。その後、加賀の前田家に招かれ、1590年の小田原征伐には、追放処分の身のままで前田軍に従軍したようです。徳川家康のキリシタン国外追放令によってマニラの地に赴いたのですが、マニラに到着後すぐに病床に就き、その地で亡くなっています。

 昨年は高山右近の没後400年、それにあわせて高山右近の福列(福者として列する)を願い出ていました。高山右近は、地位を捨てて信仰を貫いた殉教者として、福者に認定するようにローマ法王庁に申請していたのが、一昨日・2016年1月22日に法王フランシスコが認可したそうです。

 高山右近については、遠藤周作の作品で知りました。当時は埼玉に住んでいたので、高槻、明石、小豆島が遠く感じられましたが、今は、右近が領主だった明石の地に住んでいることになります。高槻まで電車で1時間ぐらいです。近々右近の足跡を訪ねようかと思います。

 右近を描いた遠藤周作の作品、手元には「走馬灯」という文庫本しか見当たりません。反逆という小説が手元に残っていませんし、他に右近を描いた作品があったように思うのですが思い出しません。