平田オリザをめぐって・・・

 職場の先輩と,あれこれと四方山話をする中で,進路指導の話題になって「生徒にとってのキャリアって?」という話になりました.

 普通科の進学校ならば,大学受験に必要な教科・科目を中心に,基礎的な学力に加えて,しっかり応用できる学力が求められます.大学が求めてる学力を問う「入試という敷居」を超えるために鍛錬が「キャリア」とも言えます.

 それに対して就職の比率の高い専門高校における「キャリア」は,様相がかなり異なるのかもしれません.就職先の職場で仕事をこなせるか?それを見極めるために面接では部活動に関する質問が比較的多いです.その生徒の個性というよりも,集団生活に馴染んでいるか?集団行動がとれるか?というような質問の背景には,企業が求める専門高校の生徒に求める「キャリア」が,大学が普通科の進学校に求める「キャリア」とは異なる為ではないかと思います.

 専門高校において会社が求める生徒の「キャリア」は,会社という組織の中で「歯車」としての素質を問われているのかもしれず,生徒自身も,自分の個性や能力以上に,会社という「組織における親和性」のようなものをアピールする傾向を感じます.それはもちろん指導する教師の思惑や,求められている生徒像にあわせようとしている部分も大きいと思います.

 学校では生徒の個性を育むことが求められていますが,実際には「個性の豊かさ」よりも「規律の正しさ」や「高校生らしさ」のような,一律のベクトルを基にした「ものさし」で生徒を測って,貌のない生徒を生み出している部分もあるかもしれません。

 いろいろな話をする中で,その先輩が最近読んだ文章から「今,話していて思い出しんたんだが・・・」と前置きをされて平田オリザの講演会録から面白い話をお聞きできました。

 2008年に起きた秋葉原通り連続殺傷事件の被告が,事件を起こす直前にネットに書き込んだ言葉「良い子を演じさせられるのに疲れた」という記述に平田オリザが注目したそうです.これまでは「良い子を演じるのに疲れた」というケースはありましたが,この事件の被告は「良い子を演じさせられるのに疲れた」とかなり大きな強迫概念にとらわれて追い込まれていたのかもしれない,誰かに操られ,自分を自分だと思えなくなったような感覚を持ってしまったのかもしれません.

 平田オリザは「良い子を演じるのに疲れた」という子どもに対して「もう良い子を演じなくて良いよ」と言うことは,表面的で偽善でに過ぎないのではないかと疑問を投げかけています.むしろ教育者としては「良い子を演じるのに疲れないタフな子ども育てる」ということが教育のほんとうの目的ではないかと提唱しているそうです.

 劇作家の平田オリザらしい表現にも感心しましたし,四方山話の中で,話を広げて平田オリザの講演録と関連づける先輩の「豊かさ」にも驚きを覚えました.アナロジーを持っていろいろな視点や視野で捉えることが教育にとって大切だと思うのですが,まさに豊穣で柔軟な姿勢を,その先輩から学び,自分自身が未だ未だだなあ~と感じました.

 後でいろいろ考えると,漱石は小説「三四郎」の中で,「偽善」と「露悪」という言葉を用いて同じようなことを言っていたなあ~と思い出しました.また,心の奥底を映し出す「能面」と,心を隠す西洋の「仮面」との対比にもアナロジーがあるのかもしれません.

 
 「ピエロ」と「クラウン」,涙マークのメイクがあるのがピエロで,ないのがクラウン・・・馬鹿にされながらも観客を笑わせている,でもピエロの笑いの陰には,馬鹿にされた悲しみを持つ,と耳学問で聴いたことがあります.

 平田オリザの提唱する「良い子を演じることを楽しむぐらいのしたたかな子ども」,まさにメタ認知ができて自分を操り自分を演じる子ども・・・いろいろイメージする中で思い出したのが藤山寛美です.寛美は涙を流して演じるのではなくて,むしろ涙して道化を演じる自分を真剣に見つめていたのかもしれません.