乃木

 昨日の9月13日は、乃木希典が妻・静子と共に明治天皇の大葬があった日に殉死して日です。乃木希典は明治時代の陸軍大将で、西南戦争,日清戦争,日露戦争に従軍しています。日露戦争では,水師営においてロシアの将軍ステッセリと会見したことが唱歌『水師営の会見』となっています.戦争に勝った日本の代表として、敵の将軍のステッセリに対して礼を重んじて扱ったことが、当時のヨーロッパで高い評価を受けていました。また、学習院の院長として、昭和天皇の幼少期の教育に携わったことでも有名です。

 今朝、黒板に「乃木」と書いて、「何を連想しますか?」と問い掛けると「乃木坂」という答えが返ってきました。確かに乃木大将の住んでいた家の前の坂が、乃木大将の死後に「乃木坂」と命名され、今は乃木神社の前の坂になっていますが、でも「乃木坂」と乃木大将とは結び付かないようです。

 当時の日本にはテレビもラジオもないので、乃木大将の殉死の報は、翌朝の新聞で知られることになりました。漱石の「こころ」でも、「先生」が新聞で乃木大将の死を知る場面が、大きな意味を持って書かれています。

「私は殉死という言葉をほとんど忘れていました。 平生使う必要のない字だから、記憶の底に沈んだまま、 腐れかけていたものと見えます。妻の笑談を聞いて 始めてそれを思い出した時、私は妻に向ってもし自分が 殉死するならば、明治の精神に殉死するつもりだと 答えました。私の答えも無論笑談に過ぎなかったの ですが、私はその時何だか古い不要な言葉に新しい 意義を盛り得たような心持がしたのです。
 それから約一カ月ほど経ちました。御大葬の夜 私はいつもの通り書斎に坐って、相図の号砲を聞き ました。私にはそれが明治が永久に去った報知のごとく聞こえました。後で考えると、それが乃木大将の永久に 去った報知にもなっていたのです。私は号外を手にして、思わず妻に殉死だ殉死だといいました。
 私は新聞で乃木大将の死ぬ前に書き残して行った ものを読みました。西南戦争の時敵に旗をられて以来、 申し訳のために死のう死のうと思って、つい今日まで 生きていたという意味の句を見た時、私は思わず指を折って、乃木さんが死ぬ覚悟をしながら生きながらえて来た年月を勘定して見ました。西南戦争は明治十年ですから、明治四十五年までには三十五年の距離があります。乃木さんはこの三十五年の間死のう死のうと思って、死ぬ機会を待っていたらしいのです。私はそういう人に取って、生きていた三十五年が苦しいか、また刀を腹へ突き立て一刹那が苦しいか、どっちが苦しいだろうと考えました。
 それから二、三日して、私はとうとう自殺する決心をしたのです。私に乃木さんの死んだ理由がよく解らないように、あなたにも私の自殺する訳が明らかに呑み込めないかも知れませんが、もしそうだとすると、それは時勢の推移から来る人間の相違だから仕方がありません。あるいは箇人のもって生れた性格の相違といった方が確かかも知れません。私は私のできる限りこの不可思議な私というものを、あなたに解らせるように、今までの叙述で己れを尽したつもりです。
 私は妻を残して行きます。私がいなくなっても妻に衣食住の心配がないのは仕合せです。私は妻に残酷な驚怖を与える事を好みません。私は妻に血の色を見せないで死ぬつもりです。妻の知らない間に、こっそりこの世からいなくなるようにします。私は死んだ後で、妻から頓死したと思われたいのです。気が狂ったと思われても満足なのです。
     「こころ」夏目漱石 より