四半世紀・25年の歳月

昨日・1月17日で、阪神・淡路大震災から25年の「とき」が流れたことになります。

25年・四半世紀の「ときの流れ」というのが、実際の歴史でどれぐらいになるのか・・・

太平洋戦争が終わったのが昭和20年、その25年後というのは昭和45年。1970年です。大阪で万国博覧会が開催されて、その6年前には東京でオリンピックが開かれています。25年の間に、敗戦、戦後、高度成長と、日本の歴史の中で、庶民レベルではもっとも目まぐるしい四半世紀だったのかもしれません。

1575年に長篠の戦いが織田信長・徳川家康連合軍と武田勝頼軍の間で起こりました。その25年後は1600年で関ヶ原の戦いです。この25年の間に、織田信長が覇権を握り、本能寺の変の後は豊臣秀吉が実権を握って天下統一して関白となって、秀吉の死後には徳川家康が地盤を固めて、そして関ヶ原の戦い・・・激動の戦国時代も、目まぐるしい四半世紀だったと思います。

幕末・明治維新の四半世紀にあてはめると、1853年に黒船来航、安政の大獄、桜田門外の変、尊王攘夷派が台頭して、薩長連盟が結ばれ、大政奉還、そして戊辰戦争の混乱と共に明治維新を迎えて、鉄道が敷かれて、郵便制度が出来、近代的な学校が出来て、高等教育機関も誕生し、そして西南戦争が1877年・・・これで江戸時代と決別したのかもしれません。1853年の黒船来航から25年後は明治11年・1878年で株式取引所が出来て、資本主義経済のスタートを切ったような年です。この幕末・維新の四半世紀も激動だったように思います。

・・・震災から25年、震災当日のことを2か月半後の3月31日に綴った文章が残っています。

 1月17日の未明、ひっくり返るような揺れの中に冷静に思考することもできず、恐怖感から、ただただ布団の中に身を横たえていました。曙光の気配さえなく、街灯も消え、ただ闇が支配していました。懐中電灯の備えもなく、ろうそくとマッチをようやく探し出してマッチをすった瞬間、薄暗い中に、ひっくり返った家具の中に横たわっていた自分を見ました。

 1月17日の朝、一番印象に残っていることは、なにごともなかったかのように東の空が明るくなり、曇り空の中に夜が明けたことです。自然な、あたりまえの出来事が、なぜだか不自然に感じ、そして、とても尊く、ありがたく感じました。

        人が こんなに つらいのに
            主よ
        海が あまりに 碧いのです。

         長崎 出津の海を望む丘の上の歌碑・遠藤周作

 私は神戸の西の端、明石海峡を挟んで淡路島を望む垂水区に自宅があり、本務校は神戸の東の端、芦屋に隣接する東灘区にあります。自宅の被害は、罹災証明書では一部損壊でしたが、本務校近辺は被害の甚大な地域で、傾いたビル、全壊した木造家屋が続いています。

 本務校が避難場所と遺体安置所となった関係で、生き残った方々と、いのちを失った方々(ご遺体)のお世話のため、2月末まではほとんど泊まり込みの毎日でした。いのちの重さを身体全体で感じました。教室の床に置かれたご遺体に安らかな表情はなく、髪の毛の中まで土埃にまみれ、体の一部を失い、鬱血で変色したご遺体を前にして言葉はありませんでした。静まり返った夜中に線香に火をつけながら、あるいは棺桶に釘を打ちつけながら、自分の中にいのちがあるということが、とても不思議に思えました。

 遺体安置所であったと同時に、避難所でもあったので、ずっと感傷的になっているわけにもいかず、食事の確保、トイレ・衛生面の配慮を、何もないところで工面せねばならず、死のstaticと生のdynamicの狭間で揺れ動いていたのが最初の1週間程でした。

 lifeという言葉の持つ様々な意味(いのち、人生、生活 etc.)を今回の地震で考えさせられました。いま、家屋やビルの取り壊しが春の日差しの中で進んでいます。家族を失い、自宅を失った方々にとって、<いま>と<これから>が、lifeを模索する時期です。

March 31,1995


        「沈黙の碑 長崎・出津の海を望む丘の上」