犀川と浅野川

 桜の季節が過ぎて5月のゴールデンウイークを目前とする季節となると躑躅(つつじ)の花が咲き乱れる光景が眩しく感じるようになります.

 躑躅の花が咲くのを目にすると、泉鏡花の「竜潭譚(りゅうたんだん)」を思い起こします。鏡花の作品の中で,私にとって義血侠血(滝の白糸)とともに最も鏡花らしい作品で,特に幻想的な竜潭譚はお気に入りです.

竜潭譚の冒頭の「躑躅が丘」・・・

「谷には菜の花は残りたり。路の右左、躑躅の花の紅なるが、見渡す方、見返る方、いまを盛なりき。ありくにつれて汗少しいでぬ。」

 姉より、一人では行ってはいけないとの言葉に背いて、丘の方に向かって…

「行く方も躑躅なり。来し方も躑躅なり。山土のいろもあかく見えたる。あまりうつくしさに恐しくなりて、家路に帰らむと思ふ時、わがゐたる一株の躑躅のなかより、羽音たかく、虫のつと立ちて頬を掠めしが、かなたに飛びて、およそ五、六尺隔へだてたる処に礫のありたるそのわきにとどまりぬ。」

 いつしか道に迷って、丘の反対側へ迷い込んでしまったようで、

「心着ば旧来し方にはあらじと思ふ坂道の異なる方にわれはいつかおりかけゐたり。丘ひとつ越えたりけむ、戻る路はまたさきとおなじのぼりになりぬ。見渡せば、見まはせば、赤土の道幅せまく、うねりうねり果はてしなきに、両側つづきの躑躅の花、遠き方は前後を塞て、日かげあかく咲込たる空のいろの真蒼き下に、彳むはわれのみなり。」

・・・青空文庫より

 今日職場で,金沢の話題となりました.最後に金沢を訪れたのは・・・2005年8月で12年前になります.金沢は女川の「浅野川」と男川の「犀川」に挟まれた町です.詩人の室井犀星の名前は犀川から名付けられたそうです.犀川の畔に犀星の文学館が建っています.犀星の詩で有名なのは「「ふるさとは遠きにありて思ふもの/そして悲しくうたふもの・・・」です.

 浅野川の畔には鏡花の文学館があります.そして浅野川の河畔には滝の白糸の石像があったのを探して見に行った記憶があります.浅野川と犀川に挟まれた金沢で,鏡花が異界の世界を描く竜潭譚をどのような体験やイメージから生み出したのか・・・探ってみたいと思っています.金沢の町を久し振りに訪れたくなりました.

「春 少女に」大岡 信

 仕事から帰って大岡信の訃報に接しました.

ごらん 火を腹にためて山が歓喜のうなりをあげ
数億のドラムをどっととたたくとき 人は蒼ざめ逃げまどふ

でも知っておきたまへ 春の齢の頂きにきみを押しあげる力こそ
氾濫する秋の川を動かして人の堤をうち砕く力なのだ

蟻地獄 髪切虫の卵どもを春まで地下で眠らせる力が
細いくだのてっぺんに秋の果実を押しあげるのだ

ぼくは西の古い都で噴水をいくつもめぐり
ドームの下で見た 神聖な名にかざられた人々の姿

迫害と殺戮のながいながい血の夜のあとで
聖なる名の人々はしんかんと大いなる無に帰してゐた

それでも壁に絵はあった 聖別された苦しみのかたみとして
大なるものは苦もなく小でありうると誇るかのやうに

ぼくは殉教できるほど まっすぐつましく生きてゐない
ひえびえとする臓腑の冬によみがへるのはそのこと

火を腹にためて人が憎悪のうなりをあげ
数個の火玉をうちあげただけで 蒼ざめるだらう ぼくは

でもきみは知ってゐてくれ 秋の川を動かして人の堤をうち砕く力こそ
春の齢の頂きにきみを置いた力なのだ

「春 少女に」1978年1月10日,朝日新聞夕刊

 この詩は,中学から高校へと進む15才の娘に対して大岡信が,若く逞しい生命力を信じて真っ直ぐな思いで進んで欲しいという思いを託した詩だそうです.来週は本務校の入学式があり,この15歳の新入生が入学します.この大岡が娘に託した思いを心に留めて新入生と接したいと思います.

 今日はお昼休みに職場の近くの公園に,やっと咲き始めた桜を撮りに行きました.

今日は曇り空で,残ながら春の暖かい陽光を浴びて桜の花が輝く写真は撮ることが出来ませんでしたが,曇天のやさしい雰囲気の中で花開いた桜の雰囲気を写真に撮ることができました.

平田オリザをめぐって・・・

 職場の先輩と,あれこれと四方山話をする中で,進路指導の話題になって「生徒にとってのキャリアって?」という話になりました.

 普通科の進学校ならば,大学受験に必要な教科・科目を中心に,基礎的な学力に加えて,しっかり応用できる学力が求められます.大学が求めてる学力を問う「入試という敷居」を超えるために鍛錬が「キャリア」とも言えます.

 それに対して就職の比率の高い専門高校における「キャリア」は,様相がかなり異なるのかもしれません.就職先の職場で仕事をこなせるか?それを見極めるために面接では部活動に関する質問が比較的多いです.その生徒の個性というよりも,集団生活に馴染んでいるか?集団行動がとれるか?というような質問の背景には,企業が求める専門高校の生徒に求める「キャリア」が,大学が普通科の進学校に求める「キャリア」とは異なる為ではないかと思います.

 専門高校において会社が求める生徒の「キャリア」は,会社という組織の中で「歯車」としての素質を問われているのかもしれず,生徒自身も,自分の個性や能力以上に,会社という「組織における親和性」のようなものをアピールする傾向を感じます.それはもちろん指導する教師の思惑や,求められている生徒像にあわせようとしている部分も大きいと思います.

 学校では生徒の個性を育むことが求められていますが,実際には「個性の豊かさ」よりも「規律の正しさ」や「高校生らしさ」のような,一律のベクトルを基にした「ものさし」で生徒を測って,貌のない生徒を生み出している部分もあるかもしれません。

 いろいろな話をする中で,その先輩が最近読んだ文章から「今,話していて思い出しんたんだが・・・」と前置きをされて平田オリザの講演会録から面白い話をお聞きできました。

 2008年に起きた秋葉原通り連続殺傷事件の被告が,事件を起こす直前にネットに書き込んだ言葉「良い子を演じさせられるのに疲れた」という記述に平田オリザが注目したそうです.これまでは「良い子を演じるのに疲れた」というケースはありましたが,この事件の被告は「良い子を演じさせられるのに疲れた」とかなり大きな強迫概念にとらわれて追い込まれていたのかもしれない,誰かに操られ,自分を自分だと思えなくなったような感覚を持ってしまったのかもしれません.

 平田オリザは「良い子を演じるのに疲れた」という子どもに対して「もう良い子を演じなくて良いよ」と言うことは,表面的で偽善でに過ぎないのではないかと疑問を投げかけています.むしろ教育者としては「良い子を演じるのに疲れないタフな子ども育てる」ということが教育のほんとうの目的ではないかと提唱しているそうです.

 劇作家の平田オリザらしい表現にも感心しましたし,四方山話の中で,話を広げて平田オリザの講演録と関連づける先輩の「豊かさ」にも驚きを覚えました.アナロジーを持っていろいろな視点や視野で捉えることが教育にとって大切だと思うのですが,まさに豊穣で柔軟な姿勢を,その先輩から学び,自分自身が未だ未だだなあ~と感じました.

 後でいろいろ考えると,漱石は小説「三四郎」の中で,「偽善」と「露悪」という言葉を用いて同じようなことを言っていたなあ~と思い出しました.また,心の奥底を映し出す「能面」と,心を隠す西洋の「仮面」との対比にもアナロジーがあるのかもしれません.

 
 「ピエロ」と「クラウン」,涙マークのメイクがあるのがピエロで,ないのがクラウン・・・馬鹿にされながらも観客を笑わせている,でもピエロの笑いの陰には,馬鹿にされた悲しみを持つ,と耳学問で聴いたことがあります.

 平田オリザの提唱する「良い子を演じることを楽しむぐらいのしたたかな子ども」,まさにメタ認知ができて自分を操り自分を演じる子ども・・・いろいろイメージする中で思い出したのが藤山寛美です.寛美は涙を流して演じるのではなくて,むしろ涙して道化を演じる自分を真剣に見つめていたのかもしれません.

「ヴェルフリ」と「蛙の祈り」

 一昨日の「感覚をつないでひらく芸術教育を考える会」の基調提案で,アウトサイダーアートの作家・アドルフ・ヴェルフリの紹介があり,大変興味を持ちました.本務校の近くの県立美術館で1月11日—2月26日まで「アドルフ・ヴェルフリ 二萬五千頁の王国」の特別展があったのですが・・・遅かりしです.

 3月7日〜4月16日まで名古屋市立美術館で開催されていますが,わざわざ名古屋まで行くのは遠いです.とりあえずヴェルフリ展の図版をamazonで注文して,今日届きました.

 一か月ほど前に注文していて取り寄せだったAnthony De Melloの”The Prayer of the Frog”がやっと発送とのことで,これも今日届きました.それぞれ別々の便でした.

 アントニオ・デ・メロ神父の「蛙の祈り」は手元にあって,長らく本棚に飾っていただけでしたが,ふと久し振りに読んで,思わず英語版を注文していました.届いた本を見ると・・・日本語版と異なります.「??」だったのですが,よく見ると”The Prayer of the Frog Vulume Ⅱ”・・・続編でした.ちょっとショックです.ネットでリサーチしたのですが”The Prayer of the Frog”はもう販売していないようです.でもFreeのPDF版を見つけて早速ダウンロード,iPadに入れました.

 iPad miniなので,ちょっと字が小さくて見えにくいです.

10inchのiPadが欲しくなりました.

感覚をつないでひらく芸術教育を考える会

感覚をつないでひらく芸術教育を考える会の第11回研究発表会が兵庫教育大学 神戸ハーバーランドキャンパスの兵教ホールで午後から開催されました.

 今回は3つのワークショップ,そして研究発表が1つ,そして兵庫教育大学の大学院生によるパフォーマンスが4つでした.

感覚をつないでひらく芸術教育を考える会第11回研究発表会のページを作成しました.
http://itsumi.citykobe.jp/20170320/ 

 研究会後の懇親会が神戸駅近くの居酒屋で3時間あまり,関西と首都圏の言葉や文化の違いの話題から話に華が咲いて,関西の祭りのスピード感の違いの話となり,「コンコンチキチン,コンチキチン」が今も耳に残っています.

大谷美術館

 お昼の時間に,職場の先輩と大谷美術館を訪れました.大谷美術館が新しく所蔵した二見彰一の銅版画の展示があるとのことでご一緒しました.

 大谷美術館は,実業家の大谷竹次郎の収集したコレクションを旧大谷邸で展示するような美術館だそうです.玄関正面の広いロビーからガラス越しに旧大谷邸の日本庭園を眺めることができ,これが圧巻でした.隣の芦屋市の谷崎潤一郎記念館の庭園も素晴らしいですが,大谷美術館の庭園は広くて圧巻でした.

 旧大谷邸の庭園を巡るような,回遊式日本庭園が良かったです.

 足元に可憐に咲いてたフッキソウが綺麗でした.

 このように大谷美術館を巡るような道筋があります.

梅が庭園の彼方此方で綺麗に咲いていました.

 展示よりも回遊式日本庭園を巡った時間の方が長いかもしれません. 

船村徹

 いつもは,1駅手前のJR神戸線・三ノ宮駅で降りて,約30分を歩いているのですが,今朝は2駅手前の元町駅で降りました.

 元町駅と三ノ宮駅の間が神戸のもっとも賑やかな繁華街かもしれません.元町駅の東口と三ノ宮駅の西口の間にアーケード商店街が連なっています.元,西国街道だった通りです.

 元町駅と三ノ宮駅の中間ぐらいに,南北にトアロードが交差して,アーケード商店街とトアロードが降参する処にある横断歩道です.道幅の広くないトアロードに,幅の広い横断歩道・・・これでも休日には横断する人で溢れます.

 早朝の商店街の風景です. 

 歩いていると雨が降ってきました.三ノ宮駅まではアーケード商店街を通って,雨が降っても大丈夫でしたが,三ノ宮駅から東は,折り畳み傘をカバンから出す必要があります.雨の中を30分歩くのを躊躇って,電車に乗ることにしました.

 雨を避けて三宮の地下街へ・・・阪神電車の三ノ宮駅前です.

 夕方のニュースで船村徹の訃報を耳にしました.

 昭和時代の歌謡曲の作曲家で,船村徹は歌手のちあきなおみを高く評価していました.ちあきなおみのCDに「もうひとりの私 ちゃおき船村徹をうたう」があります.2~3年前に買ったCDです.眠る前のひとときにアルコールを味わいながら,ゆったりと聴くような昭和時代の歌謡曲が収録されています.

 今夜は,ちあきなおみの唄う船村徹の歌謡曲を聴きながら眠る前のひとときを過ごしたいと思います.

二十歳の原点

「独りであること 未熟であること これが私の二十歳の原点である」
      高野悦子,「二十歳の原点」より

 今晩のニュースの後の,7時半からの「かんさい熱視線」は「悩んで もがいて 生きて 私たちの“二十歳の原点”」というタイトルで,高野悦子さんの「二十歳の原点」がテーマでした.

 今でもネット上で二十歳の原点に現れる店を訪れたブログ等を見ることが出来て根強い人気があるとは思っていましたが,テレビで取り上げるとは意外でした.

 高野悦子の弟が持っている「二十歳の原点」の日記の原本が登場して,ちょっと驚きました.

 大学ノートに万年筆で書き綴られた原文がテレビ画面に現われて・・・食い入るように見てしまいました.

 番組自体は,今・現在,「二十歳の原点」を愛読している京都の何人かの女学生のドキュメンタリーでした.

 「二十歳の原点」,私は「はたちの原点」ですが,アナウンサーは「にじゅっさいの原点」とアナウンスしていました.