感覚をつないでひらく芸術教育を考える会

感覚をつないでひらく芸術教育を考える会の第11回研究発表会が兵庫教育大学 神戸ハーバーランドキャンパスの兵教ホールで午後から開催されました.

 今回は3つのワークショップ,そして研究発表が1つ,そして兵庫教育大学の大学院生によるパフォーマンスが4つでした.

感覚をつないでひらく芸術教育を考える会第11回研究発表会のページを作成しました.
http://itsumi.citykobe.jp/20170320/ 

 研究会後の懇親会が神戸駅近くの居酒屋で3時間あまり,関西と首都圏の言葉や文化の違いの話題から話に華が咲いて,関西の祭りのスピード感の違いの話となり,「コンコンチキチン,コンチキチン」が今も耳に残っています.

卒業式

 今日は卒業式です.いつもと同じ時刻の電車に乗りましたが,授業の準備がないので,ちょっと遠回り・・・神戸臨港線の線路跡が残っている処へ立ち寄りました.

 写真係で,ほぼ2時間半,ファインダーを覗いて,ひたすらシャッターを切っていました.式の進行にあわせて,式場の彼方此方に視点を求めて・・・

 教室に戻って,最後のホームルーム,担任やクラスのキャラクターが滲みます.

 紅白饅頭は,ほうらく饅頭でした.白が2つと赤が3つ,アンバランスな気がしますが,ほうらく饅頭の「お祝事」用の定番だそうです.

 歩数13000歩,消費カロリー2000kcal・・・金曜のデスクワークの日とほとんど同じでした.

世界図絵

17世紀のチェコの教育者であったコメニウス(Johannes Amos Comenius)の世界図絵(Orbis Pictus)は,一般に「世界最初の子供向けの絵本」と言われています.
 

 言葉(言語)だけでものごとの概念を指し示そうとしていた本と違って,絵(非言語,視覚)を使って,いろいろなものごとの概念を指し示そうとしている点では,画期的な本とも言えます.現在の視聴覚教育やICTの源流とも言えます.

 コメニウスは,現在の学校教育の礎を構想した教育者と言われています.「同一年齢・同時入学・同一学年・同一内容・同時卒業」は現在の学校に骨格であり,人びとがすべての知識を共有することを目指した教育者でした.

 手元にある追手門大学の井ノ口淳三先生の日本語の冒頭,「読者への序言」の中で,

『無知にとっての薬は学識です.それは学校で若人にもたらされるべきものです.』

 原著では,各ページの上に絵(イラスト)があり,下に説明の言葉があるレイアウトになっており,現代のネットでよくみられるホームページやブログの形式が,これを継承しているとも言えます.手許の文庫本版では,右に言葉,左にイラストという構成です.

 表紙は,最初の項目「入門」です.

教師:こちらへおいで,かしこくなるのは勉強しなければらなないよ!
生徒:かしこくなるとはどんなことですか?
教師:必要なすべてのことを正しく理解し,正しく行い,正しく語ることだよ.

 ・・・このようなやりとりで始まります.

 「感覚」の項目では外部感覚として五感の眼,耳,鼻,舌,手を挙げており,内部感覚として,共通感覚,想像力,記憶力を挙げています.イラストは5つの感覚器官と,その中心に脳を配置しています.

「学校」の項目,説明文は,

学校は若人の心が徳へと形成される仕事場です.そしてクラスに分けられています.

 11と12は,不真面目な生徒に対して鞭打っているイラストです.

抽象的な「文辞」の項目もあります.

左端0から言葉,修辞,詩や歌,そして右端が音楽です.当時の教養(liberal arts)は現在とは違っているようです.

 現在の日本だと,国語,英語,数学,理科,社会となって,文芸や音楽は入らないのかもしれません.

見方,考え方

昨日,公開された幼稚園・小学校・中学校の新学習指導要領案,「~見方,考え方」というフレーズが多用されているのが気になりました.

 見方・・・視点や視野,或いは鑑識眼とも捉えられる言葉で,考え方は学習のプロセスのことで,「結果重視」というよりも「問題意識」や「学習過程」に力点が移行したとも捉えられるように思います.日経は「どう学ぶか」という見出しをつけていました.

 小学校の外国語の拡充を取り上げた記事もあり「英語力向上 先生に難問」というタイトルがあります.小学校学習指導要領をざっと見ると,中学校の基本的な英語力を小学校の時点で修めるような感じです.

 社会科では聖徳太子が厩戸王,大和朝廷が大和政権,鎖国が「幕府の対外政策」,そして元寇が「モンゴルの襲来」と表現が変わっています.耳慣れたフレーズを尊重することは,しないようです.

 職場の先輩が休み時間を利用して階段の昇り降りをして汗を流しておられるので,今日から挑戦することにしました.1階から6階まで階段の昇り降りを20分間続けると・・・汗だくになってしまいました.タオルを持参していなかったので,初日は20分で終了しました.

・歩数 15064歩
・階段  1490歩
・早歩き 8716歩
・活動カロリー 761kcal
・総カロリー  2240kcal
・脂肪燃焼量 39.6g
・歩行距離 11.1km

 冬場は運動量が減って,朝,三宮から一駅分の約30分歩くぐらいでしたが,階段の昇り降りで運動不足を解消したいと思います.

生徒に力をつける授業デザインの研究

公開教育研究会に参加しました.

チャレンジ!アクティヴラーニング~真のアクティヴラーニングとは何か~というサブタイトルを持つ研究推進をしていました.

公開教育研究会のページを作成しました.

生徒に力をつける授業デザインの研究
http://itsumi.citykobe.jp/20170202/

SGH「学術研究」発表会

 午後からの啓明学院でのSGH「学術研究」発表会に参加しました.

 啓明学院は神戸栄光教会を母体とするメソジストの流れを汲むミッションスクールで,関西学院と同じく宣教師ランバスの「パルモア学院」をルーツにしています.

 SGH「学術研究」発表会のページを作成しました.

SGH「学術研究」発表会
http://itsumi.citykobe.jp/20170201/

戦前,町内にあった高等女学校

 県商と星陵という隣り合った高校について調べていると・・・今住んでいる町内に,戦前に高等女学校が存在していたことを初めて知りました.

兵庫県立神戸第四高等女学校・・・1942年(昭和17年)に開校して,戦時中に校地を確保するための「開墾」に追われたり,開墾地で農作物をつくったりと,戦時中とは言え,勉学以外にことにかなりの時間を割かれたようです.

 何処に第四高女の校地があったのか・・・ネットで検索してもわかりません.ひょとしたら現在の歌敷山中学校の場所,或いは霞ヶ丘小学校の場所だったかもしれません.もしくは愛徳学園の場所だった可能性もありますが,第四高女の具体的な場所はわからず,現在の歌敷山・霞ヶ丘・五色山の何処か・・・のようです.

 昭和17年の4月に第一回の入学式があり,7月になって机・椅子が搬入されたそうです.8月には六甲山で宿泊訓練,10月には明石球場で体育大会が開かれたようです.

 翌昭和18年には,7月に霞ヶ丘開墾や防空壕掘り,そして9月からは移情閣での授業があったとの記録があり,校地校舎が不十分だったようです.

 昭和19年7月には川重明石工場での動員が始まり,終戦まで続いたようです.昭和20年には川重明石工場が空襲(第四高女の生徒に被害なし),3月には神戸空襲,6月にも神戸の市街地は空襲で,授業が満足にできていなかったようで.7月以降は授業はやめて農作業ばかりだったようです.

 戦後となる11月には校庭で運動会があったようで,翌昭和21年3月には学芸会,そして4月からは東須磨小学校へ移転したそうです.

 その後は昭和22年3月にはじめての卒業式,昭和23年4月には新制・県立第四神戸女子高等学校となって,5月には兵庫県立第二神戸高等学校に移転,その後第四高女と二中を前身とする両校は男女共学の兵庫高校となった経緯があります.

 昭和17年に開校してから,昭和21年4月に須磨に移転するまでの4年間,町内に高等女学校があったようです.

 ※ データは,兵庫高校の同窓会・武陽会のサイトを主に参考にしました.

新制高校

 自宅から徒歩圏内に3つの高校があります.愛徳カルメル修道会のミッションスクールの愛徳学園高校,兵庫県立神戸商業高校,兵庫県立星陵高校です.

 愛徳学園高校は,1948年のスペインから6名のシスターが派遣されて修道院を設立して,その後愛徳学園として幼稚園,小学校,中学校,そして1962年に高校が創立されています.

 兵庫県立神戸商業高校は,ルーツをたどると1878年に開校した「神戸商業講習所」となり,日本最古の商業高校で,兵庫県でもっとも古いルーツを持つ高校かもしれません.設立場所は,北長狭道4丁目40番地で,「兵庫県立神戸商業学校発祥地」の碑があります.現在はスーパープロフェッショナルハイスクール(SPH)に指定されているようです.

 兵庫県立星陵高校は,ルーツをたどると1941年創立の「兵庫県立第四神戸中学校」となります.設立時の場所は,北長狭通四丁目・・・現在は神戸生田中学となっている場所で,「神戸四中発祥の地」の石碑があり,,「兵庫県立神戸商業学校発祥地」の碑とは,「坂の上と下」という位置関係です.

 県商(兵庫県立神戸商業高校)と星陵(兵庫県立星陵高校)とは校地が隣り合っていますが,戦後は「垂水高校」そして「星陵高校商業科・普通科」として同一の学校だった歴史があります.

 戦後,旧制の中学や実業学校は,紆余曲折を経て新制の高校となった経緯があるようで,ちょっと調べてみると・・・

 県商は,兵庫県令(当時の県知事)森岡昌純と慶應義塾の福澤諭吉が神戸に商業の学校を設立することで話し合って,福澤諭吉に学校設立の斡旋を依頼して,1878年(明治11年)に創立,当時は,慶應義塾の教師が派遣されたようです.

 その後,1886年(明治19年)には兵庫県立神戸商業学校と改称しています.

 神戸には官立神戸高等商業学校がありましたが,1929年(昭和4年)に大学令による大学として神戸商業大学に昇格し,学部だけを持つ単科大学となった結果,兵庫県内に官公立の高等商業学校がなくなったそうです.県内の中学校や商業学校からの進学先として,同年に設立された旧制専門学校が,兵庫県立神戸高等商業学校です.
 1928年(昭和3年)に明石郡垂水村が町制施行して明石郡垂水町として発足,初代の若い垂水町長は,新しい高等商業学校の誘致を行い,垂水の星陵台に設置された経緯があります.

 そのような経緯の中で,1932年(昭和7年)に兵庫県立神戸高等商業学校の隣に,兵庫県立第一神戸商業学校に改称して,現在の星陵高校の校地に移転しました.

 1945年1月に海軍経理学校疎開によって校舎接収となって,長田の若松国民学校,西垂水の県立聾唖学校と戦災のたびに移転して,移情閣を間借りした時期もあったそうです.戦後,海軍経理学校が廃校されて星陵台に復帰となりました.

 星陵高校は,戦時体制の中で,北長狭で1941年に兵庫県立第四神戸中学校として開校以降,北長狭国民学校を間借りして,1944年に完成した校舎(現在の垂水中学校の校地)に移転,1945年1月に海軍経理学校疎開によって校舎接収となって,須磨の南須磨国民学校,私立須磨浦国民学校と戦災で転々として戦後は海軍経理学校が廃校となって現在の垂水中学校の校地に戻っていますが,1946年に焼失して,星陵台の県立第一神戸商業学校の校舎を間借りした経緯があります.

 1948年4月に学制が改革されて新制高校が発足しますが,県商は県立第一神戸商業高等学校,そして星陵は県立垂水高等学校として,それぞれ男子校でした.

 GHQの方針で,新制高校では男女共学が推し進めていたので,旧制中学と高等女学校が合併するケースが多く,当時垂水の歌敷山にあった旧制・兵庫県立第四神戸高等女学校が,新制・県立第四神戸女子高等学校となって合併先を模索するも,県立垂水高等学校も県立第四神戸女子高等学校も戦時体制で開校して歴史も短く,両校とも当時は校舎を持っていなかったこともあって距離的に近い垂水の旧制中学と高等女学校が合併することはありませんでした.

 結局,兵庫県立第四神戸高等女学校は兵庫県立第二神戸中学校と合併して,兵庫県立兵庫高等学校となりました.そして垂水高校は,県立第一神戸商業高等学校と合併することになります.

1948年9月に,商業科の兵庫県立第一神戸商業高等学校が普通科の兵庫県立垂水高等学校を吸収合併して,普通科・商業科を持つ兵庫県立星陵高等学校となりました.

 ただ地元の神戸としては,歴史のある神戸商業学校を単独の高校として復活して欲しいという要望が多く,1962年に兵庫県立神戸商業高等学校が,星陵高校の校地(元々の神戸商業学校の校地)の隣に新設,星陵高校の商業科が募集停止して普通科の高校となって現在に至っています.

 神戸市内の他の新制高校の発足当時の経緯を調べると・・・

県立第一神戸中学校と県立第一神戸女子高等女学校 →
県立神戸高校

県立第二神戸中学校と県立第四神戸女子高等女学校 →
県立兵庫高校

県立第三神戸中学校 → 県立長田高校

県立第四神戸中学校と県立第一神戸商業学校 →
県立垂水高校

県立第二神戸高等女学校と神戸市立第一中学校 →
兵庫県立神戸市立神戸夢野台高校

県立第三神戸高等女学校 → 県立御影高校

県立第二神戸中学校と県立第二神戸高等女学校は近隣の存在しており,両校の合併話もあったそうですが,それぞれ校地を持つ両校が合併すると,片方の校地が新しく学制改革で誕生する新制中学校の校地となってしまうことを嫌って,それぞれ戦災で校地を持たなかった,第四高女と市立一中と合併することになったようです.