入浴

 今朝、神戸の西隣の町・稲美町へ・・・

「稲が美しい」という町名のように田畑とため池が広がっています。この時期、稲美町の大麦畑は、実り始めた大麦が青々として綺麗です。梅雨が近づくと、麦畑が黄金色に輝く麦秋の光景が稲美町に広がります。稲美町は西日本の六条大麦の一大産地だそうです。

 垂水温泉「太平の湯」へ、1時間あまり、朝湯を楽しみました。今朝は活動量計を腕につけたまま入浴しました。防水型なので入浴時もOKなのですが、普段は入浴時やシャワー時に充電することが多かったので、入浴時の心拍数を測るの初めてです。

 入浴時は心拍数が小さく、安静状態だと思っていたのですが、結構、入浴の間の心拍数は高い数値でした。特にサウナに入った時や、いろいろな湯船を移動する時に高い数値となりました。心拍数が130台になることも多く、最も高くなったのは150を超えていました。入浴していたのは、8時過ぎから9時半頃までです。最後の方にサウナに入って、熱い湯に入っていました。

 ネットで調べると、熱いお湯に入ると、心拍数が上がって心身を覚醒させるそうです。逆に37度程度のぬるま湯に入ると、心拍数の上昇が少なく、おだやかな状態で入浴できるそうです。ぬるま湯だと、休息・リラックスの神経である副交感神経が優位となって筋肉が緩んで心身ともにリラックスできるようです。太平の湯では、炭酸に湯が比較的ぬるま湯で、それ以外は40度、42度と、熱めの湯船が多いです。

 お湯の出入りの時に、活動量計が表示する心拍数の数値が大きく変化するのを目にして、多分血圧の変動も大きいのだろうなあ~と感じました。

神戸の街、港と鉄道

 神戸の街は、平安時代から国内航路で栄えていた兵庫津という古い港を擁する「兵庫町」に隣接する位置にあって、幕末に諸外国から開港を迫られたときに、本来は「兵庫港」の開港のはずでしたが、当時の幕府が国内航路の主要港であった兵庫港を貿易港とすることを渋って「神戸」に開港した経緯があります。

 幕末に、網屋吉兵衛が兵庫港の近くの西国街道沿いの寒村に過ぎなかった「神戸村」の浜に、船のメンテナンスをする「船たで場」を私財を投じて竣工し、その施設を利用して、勝海舟が「海軍操練所」を設立をさせていました。兵庫港を貿易港とすることを嫌った幕府は、神戸村の浜にあった海軍操練所の施設を元にして港をつくって、当初は「兵庫港」として開港した経緯があります。旧暦の慶応3年のことで、現在の暦では1868年になります。

「兵庫港」ではなくて次第に港のある村名から「神戸港」の名が使われるようになり、神戸・KOBEの地名が、航路での「日本の入り口」として有名になったようです。ただ公的には1892年(明治25年)の勅令第77号ではじめて「神戸港」の名前が正式に出てくるそうです。

 幕末には、幕府領だったこともあって、明治4年の廃藩置県に先立って、慶応4年には 兵庫鎮台、そして兵庫裁判所に改められ、同年には兵庫県が誕生しています。まだ、この時には「神戸村」は、大きな兵庫町の東に位置する寒村でしかなかったわけです。慶応4年の「県」が誕生した時には、兵庫の名が使われたのは、至極当然だったことと思います。

 一方、神戸は・・・幕末までは、西国街道沿いの寒村だった「神戸村」は、貿易港開港の時に、西国街道沿いの 八部郡神戸村と二ツ茶屋村そして走水村(はしうどむら)が合併して「神戸町」となっています。概ね現在の神戸駅の東側から、三宮駅の西側辺りの浜側一帯になります。

 明治5年には、西国街道の山側の生田宮村、中宮村、花熊村、北野村、宇治野村を「神戸町」が吸収しています。明治12年には、 郡区町村編制法によって、神戸町と兵庫町、そして坂本村が合わさって「神戸区」が誕生しています。明治12年の時点では、「兵庫」と「神戸」の地名としての地位が入れ替わったようです。その後、明治22年の市制で「神戸市」となって、「兵庫」県の中に「神戸」市が存在する構図となったわけです。これは「神奈川」と「横浜」との関係に似ています。

 このように「神戸」の町は、港を中心に栄えた歴史があります。そして居留地や雑居地が町の形成に大きく関わっています。ただ現在の神戸のもっとも賑やかな繁華街である「三ノ宮」は、違った経緯で繁華街が形成されたようです。

 それまで阪神電車と阪急電車が、当時の市境だった現在の「中央区と灘区の区界」となる雲井町や脇浜町が終点で、そこからは市電に乗り換えて神戸市に入っていました。神戸の市街まで乗り入れるようになったのは、阪神電車が昭和8年に現在の三宮駅を神戸駅として開業、そして阪急電車は昭和11年に現在の、三宮駅を、これも神戸駅として開業しています。

 当時の省線は、元々は三ノ宮神社の三ノ宮駅があったのを、昭和6年に現在地に三ノ宮駅を移設した経緯がありあす。旧生田川を埋め立てた、当時は「滝道」と呼ばれていた場所に百貨店のそごうがオープンして、阪神電車と阪急電車の駅もオープンするのに合せたようです。

 三ノ宮の街は、昭和6年から昭和11年に相次いで駅が開業して、そして百貨店のそごう神戸店のオープンがスタートになっています。三ノ宮の浜側が、昔の神戸村に相当します。

 三ノ宮の生田神社の東側にある「東門街」は、昭和初期に遡る三ノ宮の歴史とは異なる経緯があるようです。元々「東門街」のカーブを描くような商店街は、明治初期にあった居留地に住む外国人向けの「競馬場」がルーツだったようです。明治元年のクリスマスには、競馬が開催されていたようです。東門街を西の端として、加納町3丁目の交差点(旧生田川)辺りまでの山手幹線の南側一帯が競馬場だったようです。ただ横浜と違って、神戸の競馬場は明治9年頃には終焉したようです。

 そして競馬場の跡地に店舗が立ち並ぶようになったのが東門街のルーツのようです。実際には、三ノ宮がターミナルとなった以降に、神戸の歓楽街のひとつになったようです。

 

 

 

理性からの逃走

夏目漱石は、小説「草枕」の冒頭で次のように書いています。

山路を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ。
情に棹させば流される。
意地を通せば窮屈だ。
とかくに人の世は住みにくい。
住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。
どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。

 小説のタイトル「草枕」を”The Grass Pillow”と訳さずに”The Three-Cornerd Word”と訳したのがAlan Turneyです。

「四角な世界から常識と名のつく、一角を磨滅して、三角のうちに住むのを芸術家と呼んでもよかろう。」から「三角のうちに住む」・・・三角の世間・・・The Three-Cornerd Wordを英訳「草枕」のタイトルにしています。

“An artist is a person who lives in the triangle which remains after the angle which we may call common sense has been removed from this four-cornered world.”

そのAlan Turneyが冒頭の「智に働けば角が立つ。」を

Approach everything rationally, and you become harsh.

と訳しています。”rationally”は、一般に「合理的」と訳されますが、Alan Turneyは「智」の訳語として”rationally”という単語を充てています。一般に「智」の訳語としては”wisdom”や”intellect”, “intelligence”という単語が充てられ、他の「草枕」の英訳では、

Relying on your intellect makes you harsh and rigid.

「知性に頼ることで、頑固で厳しくなる」(私訳)というようなニュアンスなのですが、Alan Turneyの訳だと「ものごとを合理的に捉えようとすると、頑なになる」(私訳)というようなニュアンスとなって、小説の冒頭の有名なフレーズの捉え方が異なってしまうように思います。

 漱石が草枕の冒頭で「智に働けば角が立つ。」というフレーズに込めた思いは、その後の「~詩が生れて、画が出来る。」につながることを考えると、”intellect”(知恵、知性)よりも、”rationally”(合理的、理性)という単語の方が、コンテキストを考えると、より「漱石の智」に近いニュアンスのように感じます。

「智」の対極として「情」ではなくて「芸術」(詩や画」が、この後の草枕の中ではスポットライトがあたることを考えると、合理的な考え方や理性的な捉え方から脱して、詩画の世界(Three-Cornerd Word)を目指すのが、小説「草枕」のテーマとも言えます。まさに小説の冒頭の「智に働けば角が立つ。」は、『理性からの逃走』の序章です。

“Escape from Reason”

 漱石の小説「草枕」テーマそのものをタイトルとした本があります。邦訳は「理性からの逃走」です。Francis A. Schaeffer というアメリカの牧師であり神学者の著作です。

F.A.Schaefferは、近代的な神学(いわゆるリベラル主義)に対抗して、伝統的な信仰(いわゆる福音主義)への回帰の立場をとっています。

リベラル主義とは、伝統的な宗教・信仰を、個々の信仰者の理性の光で照らして、歴史的で保守的な教理体系から自由になることです。「信仰よりも理性」を優先するような立場です。

F.A.Schaefferは、その理性から逃げ出して、伝統的な信仰への復興を目指して、それを著作「理性からの逃走」で言い表しています。

 漱石は、理性から逃走して、詩画の世界へ・・・

 F.A.Schaefferは、理性から逃走して、伝統的な信仰への回帰を・・・

 漱石とF.A.Schaefferの、近代的で合理的な捉え方の窮屈さを脱したいという思いに、アナロジーを感じました。

「四角な世界から常識と名のつく、一角を磨滅して、三角のうちに住むのを芸術家と呼んでもよかろう。」、常識で縛られた合理主義を脱するのは、芸術家だけではなくて、信仰者も同じかもしれません。

The Prayer of The Frog

手許に’The Prayer of The Frog’「蛙の祈り」という本があります。アントニオ・デ・メロというインド生まれのイエスズ会のカトリック司祭の著作で、vol.1が日本語版、vol.2が英語版です。日本語版は裏辻洋二神父の翻訳によりものです。

 この中で好きな名言が「活字にならなかった経文」という邦題がついた文章です。

Tetsugen, a student of Zen, resolved on a mighty undertaking: the printing of seven thousand copies of the sutras which till then were available only in Chinese.

He travelled the length and breath of Japan to collect funds for this project. Some wealthy people offered him as much as a hundred pieces of gold but mostly he received small coins from peasants. Tetsugen expressed equal gratitude to each donor regardless of the sum of money given.

After ten long years of travel he finally collected the funds necessary for the task. Just then the river Uji overflowed and thousands were left without food and shelter. Tetsugen spent all the money he had collected for his cherished project on these poor people.

Then he began the work of raising funds again. Again it was several years before he got the money he needed. Then an epidemic spread all over the country, so Tetsugen gave away all he had collected to help the suffering.

Once again he set out on his travel and, twenty years later, his dream of having the scriptures in the Japanese language finally came true.

The printing block that produced this first edition of the sutras is on display at the Obaku Monastery in Kyoto. The Japanese tell their children that Tetsugen got out three editions of the sutras in all; and that the first two are invisible and far superior to the third.

裏辻洋二神父の日本語訳では、

 鉄眼は禅の僧侶であった。彼は一念発起、一大事業を思い立った。それまでは中国語でしか手に入らなかった経文を日本語で七千部印刷しようという壮大な計画であった。

 彼は日本国中を駆けめぐり、資金を集めた。富裕な人々が大金をポンと寄付してくれることもまれではなかったが、寄付の大半は農夫、庶民からの小銭だった。鉄眼は大金にも小銭にも額にかかわりなく、寄進者には同様に感謝を表わした。

 十年後、事業遂行に十分なお金が集まった。ちょうどそのころ、宇治川が氾濫し、数千人が家を失い、食べるにも事欠くありさまとなった。鉄眼は長年温めてきた事業のための資金を困窮する人々のために投げ出した。

 そしてまた一から資金集めを始めた。必要な金額に達するまで、また数年を要した。こんどは全国に伝染病がまんえんした。鉄眼は災難に苦しむ人を救済するため、このお金を投入した。

 三度目の募金活動が二十年を迎え、日本人が日本語の経文を手にするという夢が現実となった。

 経文の邦訳第一版を印刷した台木は、京都の黄檗宗の寺院に保存されている。日本では、子々孫々つぎのように言い伝えられている。鉄眼は経文を計三回出版した。はじめの二版は幻の出版となったが、その出来具合は、三度目のより、はるかに優れていたと。

 このデメロ神父の言葉に触れると宗教にとって大切なものって、宗教って、信仰って・・・と考えさせられます。

 祈ること、信仰、ご本尊様、教義、布教・宣教・・・と、実際の宗教においては、ほんとうに大切なものが最優先になっているのかなあ~と、ふと考えてしまいます。ほんとうに大切なものとは・・・

 教育も同じかもしれません。学習指導要領、安全、キャリア教育・・・と学校や教育現場に求められものが、どんどん膨れ上がっているように感じますが、ほんとうにたいせつなものが最優先になっているのかなあ~と。

 学校や教育にとって、ほんとうに大切なものとは・・・

 今年の課題として、考えたいと思います。

集中講義

県立大工学部の教職課程の集中講義が昨日今日の2日間,朝から夕方まで連続8コマが終わりました.

 3月末にキャンパスを訪れた時は,管理棟が正門前に引っ越しの真っ最中でした.正門からのキャンパスの光景が・・・変わりました.

新しいホームページを作成しました.

夏の集中講義~県立大工学部教職課程
http://itsumi.citykobe.jp/20170820/

教育工学委員会

 今日は,本務校の期末考査2日目,試験監督の後に教育工学委員会の今年度第一回の会場の準備,研究会の講師のひとりは本務校の教員ですが,もう一人は大阪の教員で早目に来られたので,準備をしている間待ってもらって,食堂でお昼をご一緒しました.

 午後から研究会,一つ目はキャリア教育に関して,自己効力感をキーにして卒業生へのエスノメソドロジー的な研究手法を用いた追跡調査に関するものでした.

 尺度をつくる理論的な話から,卒業生に対するエスノメソドロジー的な実践的なアプローチまで,熱く語っていただきました.

 2つ目は,Unpluggedな情報教育に関してのワークショップです.垂直・水平パリティーから始まって,ペアになって「犯人を捜せ」をゲーム感覚で情報処理を考えるものです.

 アンプラグド・・・コンセントを抜いて,「情報」を考えるワークショップ,私の場合はC&T・・・チョーク&トークで,座学形式で受講者にイメージを伝えることにチャレンジしていますが,受講者にとってはコンピュータ・サイエンス・アンプラグドの方が,楽しく学べるだろうなあ~と思いました.

 情報教育とキャリア教育,どちらも本質的なものが忘れられて,形だけの情報教育とキャリア教育が幅を利かせているように感じます.そんな風潮の中で,お二人の講師の方から,情報教育とキャリア教育の本質に関して学ぶことが出来たと感じました.

日本産業技術教育学会 高校委員会

日本産業技術教育学会 高校委員会の,第2回研究会が滋賀大学の大津サテライトプラザで開催されました.

 滋賀大学の大津サテライトプラザは,JR湖西線の大津駅の目の前,横断歩道を渡ったすぐの日本生命ビルの4階にあります.

 今回の研究会のテーマは「STEM教育とキャリア教育」です.

 オーラルの発表が3つ用意されていました.北海道から鹿児島まで,結構遠方からの参加者もいました.

 最初は,STEMとは何か?愛媛県の理科の教諭からの発表です.

 次にSTEMとキャリア教育に関する意識調査,滋賀県の中学校の技術の教諭からの発表です.

 最後が,教員養成におけるSTEMに関する実践報告,滋賀大学教育学部の学生の発表でした.

発表を聞いてのメモ

・Think Pair Share 意見交換だけで終わらせるのではなくて共同して仮説をつくる

・QUILT Quality Indicators for Learning and Teaching~学びと教えの為の品質指標

・「クッキングスクールのレシピ」と「考え抜く」ということとの対比 Self Learning

・STS  科学(Science)・技術(Technology)・社会(Society)の略で、科学技術の持つ社会的な諸問題をさまざまな角度から研究する、新しい形の科学技術論の研究や教育

・「考え抜く」とは?簡単のできない課題?それとも「できない」を耐えられる耐性,教師のアシストの下に課題が変化?

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午後からの大津での研究会に,早目に自宅を出て京都の街を散策しました.

 京都から大津まで,JRではなくて,地下鉄東西線から京阪京津線の直通電車に乗りました.地下鉄から峠越えの山岳電車のような車窓,そして大津市内では路面電車のような併用軌道の区間と,車窓の景色が面白かったです.

 京~大津(梅雨の晴れ間の寄り道)というページを作成しました.
http://itsumi.citykobe.jp/20170624/