戦略~大局観

将棋の名人・羽生善治の著作に『大局観 自分と闘って負けない心』があります.

 大局観とは,局所的な読にとどまらず、盤面全体を見通す、さらには勝負の大きな流れを見通すことのできる,鳥瞰・俯瞰する能力のことです.「知識」を”自分の頭で考える”ことを通して「知恵」に昇華させることの積み重ねが「大局観」とも言えます.

 一般的な言葉としては,戦略的(strategy)という言葉が用いられることがあります.戦術的(tactics)に対する言葉で,

戦術的(tactics)・・・戦闘実行上の方略で,ある目的を達成するための方法であり,ある戦闘における戦闘力の使用方法のことを指し示す言葉です.(広辞苑より)

それに対して,戦略的(strategy)という言葉は,

戦略的(strategy)・・・各種の戦闘を総合して,戦争を全局的に運用する方法であり,戦術よりも広範な作戦計画のことを指し示す言葉です.(広辞苑より)

 羽生善治は,5月に15歳で将棋の7段となった藤井颯太に関して「安全策をとるか?勝負に出るか?」という局面において,一般的に安全策をとる王道の手ではなくて,無謀とも言える勝負の一手を果敢に挑戦して,結果的に勝ちとなっているという分析をしているのを聞きました.これもしっかりとした大局観を持っている故なのかもしれません.

10日ほど前に,アメリカ男子プロゴルフツアーでの出来事が大きくクローズアップされました,全米オープンにおいて,ミケルソンが、「2罰打を知りながら故意にグリーン上で動いているボールを打つ」というルールを『戦略的』に使った行為が問題になりました.

 動いているボールを打つという「ゴルファーにとって“あるまじき”行為を行った」ことに対する非難の声が大きかったのですが,本人の弁は,

「あえて2打罰を受けた。このルールを“活用”した」

「動いているボールを打った場合は2打罰を受ける」というペナルティを受け入れる前提で、「ボールが止まったところからやり直す」というメリットを選んだと話したそうです.

いわゆる「故意の反則」を選択したことになります.結局,世界中のファンからの批判を受けたミケルソンは「自分の行動を恥じ失望している。」という謝罪コメントを出すことになりました.

 サッカーにおいては,得点に絡むような場面で敢えてファウルをしてボールを止める“プロフェッショナル・ファウル”が存在しますし,バスケットボールにおいては,試合終了間際に戦略的にファウルをすることによって時計をとめる“ファウル・ゲーム”も行われています.

 ミケルソンは「戦略」として選択したのですが,動いているボールを打つという「故意の反則」に対しては,厳しい意見が大勢だったようで,ゴルフの世界では「戦略」としては認められないようです.

 決勝進出をかけたFIFAワールドカップでの6月28日のポーランド戦において,特に英BBCは「茶番」という表現で,強く日本代表チームを非難するコメントを出しています.

The match finished in farcical fashion, with both sides happy to play the ball around at the back for much of the final quarter.

 試合は,両チームとも最後のクウォータのほとんどを,ボールを回して喜ぶという,「茶番劇の様相」で幕切れとなった

https://www.bbc.com/sport/football/44439298

Japan go through but final group game ends in ‘mind-boggling farce’

 日本は予選を通過しましたが,最後のゲームは「唖然とする茶番」だった.
 
https://www.bbc.com/sport/football/44649668

 日本代表チームの西野監督は,

「チームとすれば本意ではないですけど、勝ち上がる中での戦略。こういう形も成長していく中での一つの選択だと思います」

 積極的に攻めずに,消極的な意味で「得点を取られない,イエローカードを増やさない」という,「目の前の試合に負けて,決勝進出という大きな目標を優先」という戦略という見解でした.

 将棋の藤井聡太7段は,安全策ではなくて負けるリスクを覚悟で果敢に攻める「大局観」を羽生善治名人が評価していますが,西野監督の「戦略」は,まさに安全策そのもので,「小事を捨てて,大事を取った」ようなものです.

 サッカーのゲームとしての「美しさ」を感じられないゲームでしたが,自ら果敢に攻めて勝ち取ったという「実質原理」ではなくて、「形式原理として決勝進出」を手に入れました.

 日本のお城は,守りの砦です,籠城して守り抜くことが城の大きな役目です.ただ果敢なゲームプレーの中で,相手の攻撃に対して華麗に守るというわけでもなく,「ただただ後方でボールを廻して喜んでいる茶番」が,ほんとうにスポーツマンとして「守り抜く」ことになるのか・・・厳しい目で世間から見られた結果となってしまいました.

 結局,今朝のベルギーとの試合で,後半すぐに2点リードした後に,3点を許して敗北してしまいました.

大事の前の小事・・・これも戦略と戦術の関係を言い得て妙なフレーズです.

赤穂浪士の神崎与五郎の逸話として・・・

与五郎が江戸に向かう道中,箱根の辺りで,丑五郎というヤクザ者の馬子に「馬に乗れ」と絡まれたが、与五郎の断る様子を見て腰抜け侍と調子に乗って悪態をついた上に丑五郎が「詫び証文を書け」と凄んできた。大事の前に騒動になること恐れた与五郎は、おとなしく詫び証文を書いたとのこと,これを見た丑五郎は笑って立ち去ったということです.その後、赤穂浪士の討ち入りがあり、その中に神崎与五郎がいたことを知った丑五郎は己を恥じて出家の上、神崎を弔ったという話.

 大事をなすには小事にも気をつけ油断してはならない,と感じるときに,この忠臣蔵のエピソードを思い浮かべます.

大学病院

母親の体調が芳しくないので、大学病院での診察の付き添いに行ってきました。

朝一番の授業を一コマしてから、すぐに電車に乗って、神戸駅からタクシーで、普段タクシーを利用することがないので、久しぶりにタクシーに乗りました。

神戸大学医学部付属病院、元々は明治2年に設立された神戸病院が発祥となるようです。設立当初から病院として医師の養成課程もあったようで、明治9年には神戸病院附属医学所が出来、明治15年には兵庫県立神戸医学校が開設されています。明治33年には現在地に移転して現在に至っています。神戸医学校は政府の方針で数年で閉校となっていましたが、昭和19年に兵庫県立医学専門学校(旧制・医専)、そして戦後すぐの昭和21年には、医師と教員養成は大学で行なうというGHQの方針で、予科3年を含めた7年制の兵庫県立医科大学(旧制・医大)となって、昭和27年には兵庫県立神戸医科大学(新制・医大)、そして国立に移管されて神戸大学医学部(医学部)となったのが昭和39年です。

 医大の時代が長かったので、今でも医大や医大病院と呼ばれることがあります。

 掛りつけのの医師の紹介状を持って「地域予約窓口」へ
 

 総合内科とペインクリニックでの診察に付き添いました。総合内科では、あれこれと医師が問診をして、時系列的にまとめて、結構、的を得た問いをしながら診断を進めています。素晴らしい問答法を目の当たりしているような気がしました。

 診察が終わって、会計は窓口ではなくて、ディスプレーで番号が表示されると精算機で会計を済ますシステムです。

 子どもの頃、古い建物だった頃の医大の薄暗い地下に食堂があって、食事をした記憶がありますが、建物は建て替えられて、地下にレストランがありました。親子丼は焼いた鶏肉で香ばしい香りがしていました。

入浴

 今朝、神戸の西隣の町・稲美町へ・・・

「稲が美しい」という町名のように田畑とため池が広がっています。この時期、稲美町の大麦畑は、実り始めた大麦が青々として綺麗です。梅雨が近づくと、麦畑が黄金色に輝く麦秋の光景が稲美町に広がります。稲美町は西日本の六条大麦の一大産地だそうです。

 垂水温泉「太平の湯」へ、1時間あまり、朝湯を楽しみました。今朝は活動量計を腕につけたまま入浴しました。防水型なので入浴時もOKなのですが、普段は入浴時やシャワー時に充電することが多かったので、入浴時の心拍数を測るの初めてです。

 入浴時は心拍数が小さく、安静状態だと思っていたのですが、結構、入浴の間の心拍数は高い数値でした。特にサウナに入った時や、いろいろな湯船を移動する時に高い数値となりました。心拍数が130台になることも多く、最も高くなったのは150を超えていました。入浴していたのは、8時過ぎから9時半頃までです。最後の方にサウナに入って、熱い湯に入っていました。

 ネットで調べると、熱いお湯に入ると、心拍数が上がって心身を覚醒させるそうです。逆に37度程度のぬるま湯に入ると、心拍数の上昇が少なく、おだやかな状態で入浴できるそうです。ぬるま湯だと、休息・リラックスの神経である副交感神経が優位となって筋肉が緩んで心身ともにリラックスできるようです。太平の湯では、炭酸に湯が比較的ぬるま湯で、それ以外は40度、42度と、熱めの湯船が多いです。

 お湯の出入りの時に、活動量計が表示する心拍数の数値が大きく変化するのを目にして、多分血圧の変動も大きいのだろうなあ~と感じました。

神戸の街、港と鉄道

 神戸の街は、平安時代から国内航路で栄えていた兵庫津という古い港を擁する「兵庫町」に隣接する位置にあって、幕末に諸外国から開港を迫られたときに、本来は「兵庫港」の開港のはずでしたが、当時の幕府が国内航路の主要港であった兵庫港を貿易港とすることを渋って「神戸」に開港した経緯があります。

 幕末に、網屋吉兵衛が兵庫港の近くの西国街道沿いの寒村に過ぎなかった「神戸村」の浜に、船のメンテナンスをする「船たで場」を私財を投じて竣工し、その施設を利用して、勝海舟が「海軍操練所」を設立をさせていました。兵庫港を貿易港とすることを嫌った幕府は、神戸村の浜にあった海軍操練所の施設を元にして港をつくって、当初は「兵庫港」として開港した経緯があります。旧暦の慶応3年のことで、現在の暦では1868年になります。

「兵庫港」ではなくて次第に港のある村名から「神戸港」の名が使われるようになり、神戸・KOBEの地名が、航路での「日本の入り口」として有名になったようです。ただ公的には1892年(明治25年)の勅令第77号ではじめて「神戸港」の名前が正式に出てくるそうです。

 幕末には、幕府領だったこともあって、明治4年の廃藩置県に先立って、慶応4年には 兵庫鎮台、そして兵庫裁判所に改められ、同年には兵庫県が誕生しています。まだ、この時には「神戸村」は、大きな兵庫町の東に位置する寒村でしかなかったわけです。慶応4年の「県」が誕生した時には、兵庫の名が使われたのは、至極当然だったことと思います。

 一方、神戸は・・・幕末までは、西国街道沿いの寒村だった「神戸村」は、貿易港開港の時に、西国街道沿いの 八部郡神戸村と二ツ茶屋村そして走水村(はしうどむら)が合併して「神戸町」となっています。概ね現在の神戸駅の東側から、三宮駅の西側辺りの浜側一帯になります。

 明治5年には、西国街道の山側の生田宮村、中宮村、花熊村、北野村、宇治野村を「神戸町」が吸収しています。明治12年には、 郡区町村編制法によって、神戸町と兵庫町、そして坂本村が合わさって「神戸区」が誕生しています。明治12年の時点では、「兵庫」と「神戸」の地名としての地位が入れ替わったようです。その後、明治22年の市制で「神戸市」となって、「兵庫」県の中に「神戸」市が存在する構図となったわけです。これは「神奈川」と「横浜」との関係に似ています。

 このように「神戸」の町は、港を中心に栄えた歴史があります。そして居留地や雑居地が町の形成に大きく関わっています。ただ現在の神戸のもっとも賑やかな繁華街である「三ノ宮」は、違った経緯で繁華街が形成されたようです。

 それまで阪神電車と阪急電車が、当時の市境だった現在の「中央区と灘区の区界」となる雲井町や脇浜町が終点で、そこからは市電に乗り換えて神戸市に入っていました。神戸の市街まで乗り入れるようになったのは、阪神電車が昭和8年に現在の三宮駅を神戸駅として開業、そして阪急電車は昭和11年に現在の、三宮駅を、これも神戸駅として開業しています。

 当時の省線は、元々は三ノ宮神社の三ノ宮駅があったのを、昭和6年に現在地に三ノ宮駅を移設した経緯がありあす。旧生田川を埋め立てた、当時は「滝道」と呼ばれていた場所に百貨店のそごうがオープンして、阪神電車と阪急電車の駅もオープンするのに合せたようです。

 三ノ宮の街は、昭和6年から昭和11年に相次いで駅が開業して、そして百貨店のそごう神戸店のオープンがスタートになっています。三ノ宮の浜側が、昔の神戸村に相当します。

 三ノ宮の生田神社の東側にある「東門街」は、昭和初期に遡る三ノ宮の歴史とは異なる経緯があるようです。元々「東門街」のカーブを描くような商店街は、明治初期にあった居留地に住む外国人向けの「競馬場」がルーツだったようです。明治元年のクリスマスには、競馬が開催されていたようです。東門街を西の端として、加納町3丁目の交差点(旧生田川)辺りまでの山手幹線の南側一帯が競馬場だったようです。ただ横浜と違って、神戸の競馬場は明治9年頃には終焉したようです。

 そして競馬場の跡地に店舗が立ち並ぶようになったのが東門街のルーツのようです。実際には、三ノ宮がターミナルとなった以降に、神戸の歓楽街のひとつになったようです。

 

 

 

理性からの逃走

夏目漱石は、小説「草枕」の冒頭で次のように書いています。

山路を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ。
情に棹させば流される。
意地を通せば窮屈だ。
とかくに人の世は住みにくい。
住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。
どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。

 小説のタイトル「草枕」を”The Grass Pillow”と訳さずに”The Three-Cornerd Word”と訳したのがAlan Turneyです。

「四角な世界から常識と名のつく、一角を磨滅して、三角のうちに住むのを芸術家と呼んでもよかろう。」から「三角のうちに住む」・・・三角の世間・・・The Three-Cornerd Wordを英訳「草枕」のタイトルにしています。

“An artist is a person who lives in the triangle which remains after the angle which we may call common sense has been removed from this four-cornered world.”

そのAlan Turneyが冒頭の「智に働けば角が立つ。」を

Approach everything rationally, and you become harsh.

と訳しています。”rationally”は、一般に「合理的」と訳されますが、Alan Turneyは「智」の訳語として”rationally”という単語を充てています。一般に「智」の訳語としては”wisdom”や”intellect”, “intelligence”という単語が充てられ、他の「草枕」の英訳では、

Relying on your intellect makes you harsh and rigid.

「知性に頼ることで、頑固で厳しくなる」(私訳)というようなニュアンスなのですが、Alan Turneyの訳だと「ものごとを合理的に捉えようとすると、頑なになる」(私訳)というようなニュアンスとなって、小説の冒頭の有名なフレーズの捉え方が異なってしまうように思います。

 漱石が草枕の冒頭で「智に働けば角が立つ。」というフレーズに込めた思いは、その後の「~詩が生れて、画が出来る。」につながることを考えると、”intellect”(知恵、知性)よりも、”rationally”(合理的、理性)という単語の方が、コンテキストを考えると、より「漱石の智」に近いニュアンスのように感じます。

「智」の対極として「情」ではなくて「芸術」(詩や画」が、この後の草枕の中ではスポットライトがあたることを考えると、合理的な考え方や理性的な捉え方から脱して、詩画の世界(Three-Cornerd Word)を目指すのが、小説「草枕」のテーマとも言えます。まさに小説の冒頭の「智に働けば角が立つ。」は、『理性からの逃走』の序章です。

“Escape from Reason”

 漱石の小説「草枕」テーマそのものをタイトルとした本があります。邦訳は「理性からの逃走」です。Francis A. Schaeffer というアメリカの牧師であり神学者の著作です。

F.A.Schaefferは、近代的な神学(いわゆるリベラル主義)に対抗して、伝統的な信仰(いわゆる福音主義)への回帰の立場をとっています。

リベラル主義とは、伝統的な宗教・信仰を、個々の信仰者の理性の光で照らして、歴史的で保守的な教理体系から自由になることです。「信仰よりも理性」を優先するような立場です。

F.A.Schaefferは、その理性から逃げ出して、伝統的な信仰への復興を目指して、それを著作「理性からの逃走」で言い表しています。

 漱石は、理性から逃走して、詩画の世界へ・・・

 F.A.Schaefferは、理性から逃走して、伝統的な信仰への回帰を・・・

 漱石とF.A.Schaefferの、近代的で合理的な捉え方の窮屈さを脱したいという思いに、アナロジーを感じました。

「四角な世界から常識と名のつく、一角を磨滅して、三角のうちに住むのを芸術家と呼んでもよかろう。」、常識で縛られた合理主義を脱するのは、芸術家だけではなくて、信仰者も同じかもしれません。

The Prayer of The Frog

手許に’The Prayer of The Frog’「蛙の祈り」という本があります。アントニオ・デ・メロというインド生まれのイエスズ会のカトリック司祭の著作で、vol.1が日本語版、vol.2が英語版です。日本語版は裏辻洋二神父の翻訳によりものです。

 この中で好きな名言が「活字にならなかった経文」という邦題がついた文章です。

Tetsugen, a student of Zen, resolved on a mighty undertaking: the printing of seven thousand copies of the sutras which till then were available only in Chinese.

He travelled the length and breath of Japan to collect funds for this project. Some wealthy people offered him as much as a hundred pieces of gold but mostly he received small coins from peasants. Tetsugen expressed equal gratitude to each donor regardless of the sum of money given.

After ten long years of travel he finally collected the funds necessary for the task. Just then the river Uji overflowed and thousands were left without food and shelter. Tetsugen spent all the money he had collected for his cherished project on these poor people.

Then he began the work of raising funds again. Again it was several years before he got the money he needed. Then an epidemic spread all over the country, so Tetsugen gave away all he had collected to help the suffering.

Once again he set out on his travel and, twenty years later, his dream of having the scriptures in the Japanese language finally came true.

The printing block that produced this first edition of the sutras is on display at the Obaku Monastery in Kyoto. The Japanese tell their children that Tetsugen got out three editions of the sutras in all; and that the first two are invisible and far superior to the third.

裏辻洋二神父の日本語訳では、

 鉄眼は禅の僧侶であった。彼は一念発起、一大事業を思い立った。それまでは中国語でしか手に入らなかった経文を日本語で七千部印刷しようという壮大な計画であった。

 彼は日本国中を駆けめぐり、資金を集めた。富裕な人々が大金をポンと寄付してくれることもまれではなかったが、寄付の大半は農夫、庶民からの小銭だった。鉄眼は大金にも小銭にも額にかかわりなく、寄進者には同様に感謝を表わした。

 十年後、事業遂行に十分なお金が集まった。ちょうどそのころ、宇治川が氾濫し、数千人が家を失い、食べるにも事欠くありさまとなった。鉄眼は長年温めてきた事業のための資金を困窮する人々のために投げ出した。

 そしてまた一から資金集めを始めた。必要な金額に達するまで、また数年を要した。こんどは全国に伝染病がまんえんした。鉄眼は災難に苦しむ人を救済するため、このお金を投入した。

 三度目の募金活動が二十年を迎え、日本人が日本語の経文を手にするという夢が現実となった。

 経文の邦訳第一版を印刷した台木は、京都の黄檗宗の寺院に保存されている。日本では、子々孫々つぎのように言い伝えられている。鉄眼は経文を計三回出版した。はじめの二版は幻の出版となったが、その出来具合は、三度目のより、はるかに優れていたと。

 このデメロ神父の言葉に触れると宗教にとって大切なものって、宗教って、信仰って・・・と考えさせられます。

 祈ること、信仰、ご本尊様、教義、布教・宣教・・・と、実際の宗教においては、ほんとうに大切なものが最優先になっているのかなあ~と、ふと考えてしまいます。ほんとうに大切なものとは・・・

 教育も同じかもしれません。学習指導要領、安全、キャリア教育・・・と学校や教育現場に求められものが、どんどん膨れ上がっているように感じますが、ほんとうにたいせつなものが最優先になっているのかなあ~と。

 学校や教育にとって、ほんとうに大切なものとは・・・

 今年の課題として、考えたいと思います。

集中講義

県立大工学部の教職課程の集中講義が昨日今日の2日間,朝から夕方まで連続8コマが終わりました.

 3月末にキャンパスを訪れた時は,管理棟が正門前に引っ越しの真っ最中でした.正門からのキャンパスの光景が・・・変わりました.

新しいホームページを作成しました.

夏の集中講義~県立大工学部教職課程
http://itsumi.citykobe.jp/20170820/