真正な学び~市川伸一先生

大阪大学中之島センターで開催される、兵庫教育大学連合研究科主催の教育実践フォーラムに参加するために大阪に向かいました。

堂島川と土佐堀川に挟まれた中之島に、かつて大阪大学のキャンパスがありました。1993年に医学部と付属病院が千里丘陵に移転して、中之島には現在キャンパスは現存せず、医学部跡地に中之島センターがあるのみです。田簔橋・筑前橋と堂島大橋・土佐堀橋の間辺りに、大阪帝国大学時代の医学部・工学部・理学部のキャンパスがあったようです。

 西梅田から、地下の「堂島地下センタ-・ドーチカ」を歩きました。かつてはおじ様御用達の店舗や飲み屋が並んでいましたが、現在は、その面影があまり感じられないぐらいにリニューアルされています。

ドーチカの南端を出て西の路地を入ると中央電気倶楽部があります。 

 古い建物が、そのまま残っています。照明学会で2度、お世話になりました。

 渡辺橋を渡って、河口に向かって、中之島の堂島川沿いを田簔橋辺りまで・・・快晴で汗ばみました。

明治6年に当時は第三大学区だった大阪に官立大阪師範学校が設立されたそうですが、財政難で廃止されたそうです。それとは別に明治7年に南御堂に大阪府立の教員伝習所が設立され、それが翌年には大阪府師範学校と改称し、明治10年に、ここ中之島に移転したそうです。この大阪府師範学校が、戦後に大阪学芸大学となって現在の大阪教育大学です。

 大阪大学医学部付属病院の跡地辺り、堂島川の右岸には「Red&Blue street」という遊歩道がありました。

 玉江橋から堂島川越しに中之島・・・手前が大阪大学中之島センター、その後ろのビルが関西電力です。

 中之島センターです。博士論文資格試験は此処で受けました。合格後に、すぐ博士論文の執筆にかかりました。

 5階の講義室、今日の講演者は、東京大学教育学研究科の市川伸一先生です。教育心理学部門の第一人者ですが、講演を聴くのは初めてです。
 

『「真正の学び」からの批判と「真正の学び」への批判』というタイトルで1時間半、「正統的周辺参加」と「Resercher-Like Activity(研究者の縮図的活動)」との対比が、大変興味深かったです。「正統的周辺参加」と、ヴィゴツキーの最近接発達領域(ZPD・Zone of proximal development)との違いはなんだろうなあ~と思いながら「徒弟制」の功罪について考えさせられました。

 講演内容とはベクトルが異なりますが、専門を初期の段階で学ぶのと、教養をしっかりと修めてから学ぶのとでは、どちらが「真正」なのかなあ~と、ふと考えさせられました。

 大阪の地下街にある「八百富写真機店」、以前は、この奥まで全部が八百富でしたが、今は人通りの少ない方の片隅だけになっていました。

diploma mill

十年あまり前に、ディプロマミル(diploma mill)が問題になったことがありました。ディプロマミルというのは、金銭と引き換えに高等教育の「学位」を授与すると称する「自称大学」のことです。

 特に問題になったのが、ディプロマミルと疑われる博士号を取得して、その学位で大学教員として採用されるケースです。実際に文部科学省が徴した結果、数十人が、出所が疑わしい学位を元に採用されていた結果が得られていました。文部科学省は、各教員が有する「研究業績」および「取得学位」という教育情報の公表を各大学に要請していました。「取得学位」に関しては、学位の名称を使用する際に専攻分野のみならず、授与機関名をも併せて付記することになっています。

 そして今朝の毎日新聞の一面に「ハゲタカジャーナル」の記事が載っていました。「ディプロマミル」が「取得学位」に関する問題とすれば、「ハゲタカジャーナル」は「研究業績」に関する問題です。

 日本では「何処の学会、どの論文誌」に掲載されたかが論文の「質の担保」になるケースが多いですが、留学生が国内の大学の教員に、いわゆる「ハゲタカジャーナル」への投稿を希望することがあるそうです。

担保されない論文が「研究業績」となって得た「学位」は、ディプロマミルではなくて、どちらかと言えばディグリーミル(degree mill)になるのかもしれません。

 

BirthDay

8月25日、今日は信州大で学会発表、はじめての学会発表も信州大でしたが工学部キャンパスでした。今回は善光寺門前近隣の教育学部のキャンパスでした。

 オーラルセッションでの発表後に、質問が2つ、「言語能力」に関して、考えさせられました。ホテルから約5キロを自転車で・・・大学に着くと汗がとめどなく流れて、汗がひくのに時間が掛かりました。

 今日・8月25日は、世界初の即席麺・インスタントラーメンの元祖が誕生して60周年です。

 そして8月25日は、私のBirtayでもあります。旅先の長野のホテルで、「バースデイフード」としてカップ麺のチキンラーメンを美味しくいただきました。

 引き続き、Twitterで旅先から・・・

https://twitter.com/City_KOBE_

流浪する民

 今日は元町駅で降りて,鯉川筋を北に向かいました.鯉川筋は,暗渠となった鯉川の上部の道路で,大丸神戸店前のスクランブル交差点も鯉川の暗渠の上になります.山手幹線までは鯉川筋を歩いたことはありますが,その上は歩いたことがありませんでした.

 山手幹線から北は,道幅が狭くなります。鉄柱の電柱(配電)が、鯉川筋に残っていました。

 狭い坂道を、山が迫るような感じて上っていきます。

神戸移住センター前の道路で行き止まりになります.

東に向かって,トアロードの「山本通3丁目」の交差点でを直進すると「山本通(異人館通り)」,山手に進むと神戸外国倶楽部前を経て「北野通り」となります.

 北野通り沿いの側溝の底がレンガでした.

 北野通りから、更に山側に向かう急な坂道がありますが、どれも行き止まりのようです。

半月ほど前に北野通りを歩いて,ユダヤ教のシナゴーグ(synagogue・会堂)を見つけました.神戸に長年住んでいますが,シナゴーグが神戸にあるのを知りませんでした.

 調べると,日本には神戸以外にも長崎と横浜にもかつてはシナゴーグがあったようです.長崎のシナゴーグは,長崎のユダヤ人が神戸に移ることによってなくなり,横浜のシナゴーグは関東大震災によって神戸に移住してきたそうで,昭和15年頃には,神戸には2つのシナゴーグがあったとされています.

 昭和15年,リトアニア日本領事館領事代理だった杉原千畝が,ナチス・ドイツの迫害を逃れてきたユダヤ難民に対して,「日本通過ビザ」を発給して,大勢のユダヤ人がヨーロッパからシベリア鉄道でウラジオストックに向かって,船で敦賀に上陸して,神戸のユダヤ協会を頼って,5000人を超えるユダヤ難民が,一時神戸に滞在したようです.

 神戸市文書館が編集・発行している神戸市史紀要「神戸の歴史」第26号において,神学者の神田健次が「開かれた国際都市としてのミナト神戸」において,概要を説明しています.また神戸外国人居留地研究会の岩田隆義が「神戸とユダヤ難民」において詳細をまとめています.

 この紀要の中で、ナチスドイツの迫害で逃れて神戸に辿りついたユダヤ人が滞在した場所が地図にプロットしていました。現在のシナゴーグがある場所の近辺に集中しています。

 当時のシナゴーグは空襲で焼失したそうで,現在,北野通りにあるシナゴーグは昭和45年にできたものだそうです.

ジャイナ教の寺院の前を通って・・・

 不動坂を下って,加納町3丁目の交差点へ,

 元町駅から三ノ宮駅まで,北野通りを経て歩くと汗だくになりました.

 三ノ宮駅からJRで灘駅へ.灘駅の北側に割塚古墳跡,此処に古墳があったわけではなくて,豊臣秀吉が大坂城を築くのに,割塚古墳の石室の巨石を持ち去って,残った石が打ち捨てられていたそうで,「割塚」と呼ばれるようになったそうです.

 阪急電車の高架工事の為に,西南20mの現在地に移されたそうで,元々の位置は阪急電車の高架が道路を斜交する交差点の歩道橋の辺りだったのかもしれません.

 午後からお休みをとって、帰路、須磨駅での光景、須磨の海水浴場の向こうに、ポッカリと夏の雲が浮かんでいました。

「世界は朝から始まったの?」

 今朝のNHKのラジオの「夏休み子ども科学電話相談」のトップバッターが小学校1年生の女の子で、質問内容が「世界は朝から始まったの?」

 アナウンサーが「どうしてそう思ったの?」と聞いたのに対して、その女の子は「お空を見て思ったの」と答えたそうです。回答者の先生は「お空見てたらそういう風に思ったんだ、すごいね」と感心したとのこと、素朴な疑問って、大切だなあ~と感じました。

 朝の神戸市道夢野白川線は、大変混雑していました。

 鵯越の交差点へのトンネル付近が、半月前の豪雨で土砂崩れが起きて、まだ復旧していません。車線規制があり、鵯ICから宮川町の交差点へ向かいました。

 久し振りに上筒井通を走ると・・・週刊誌を100円で売っている店を目にして、なんとなく懐かしいなあ~と感じました。この店は車窓からしか見たことがありませんが、おそらく発売日から2~3日経った週刊誌を扱っているのだろうなあ~と思っていました。

 午後、真っ青な夏の空に、真っ白な白い雲がクッキリ・・・

 真夏の光景が広がって、台風が去った神戸は猛暑が戻りました。

戦略~大局観

将棋の名人・羽生善治の著作に『大局観 自分と闘って負けない心』があります.

 大局観とは,局所的な読にとどまらず、盤面全体を見通す、さらには勝負の大きな流れを見通すことのできる,鳥瞰・俯瞰する能力のことです.「知識」を”自分の頭で考える”ことを通して「知恵」に昇華させることの積み重ねが「大局観」とも言えます.

 一般的な言葉としては,戦略的(strategy)という言葉が用いられることがあります.戦術的(tactics)に対する言葉で,

戦術的(tactics)・・・戦闘実行上の方略で,ある目的を達成するための方法であり,ある戦闘における戦闘力の使用方法のことを指し示す言葉です.(広辞苑より)

それに対して,戦略的(strategy)という言葉は,

戦略的(strategy)・・・各種の戦闘を総合して,戦争を全局的に運用する方法であり,戦術よりも広範な作戦計画のことを指し示す言葉です.(広辞苑より)

 羽生善治は,5月に15歳で将棋の7段となった藤井颯太に関して「安全策をとるか?勝負に出るか?」という局面において,一般的に安全策をとる王道の手ではなくて,無謀とも言える勝負の一手を果敢に挑戦して,結果的に勝ちとなっているという分析をしているのを聞きました.これもしっかりとした大局観を持っている故なのかもしれません.

10日ほど前に,アメリカ男子プロゴルフツアーでの出来事が大きくクローズアップされました,全米オープンにおいて,ミケルソンが、「2罰打を知りながら故意にグリーン上で動いているボールを打つ」というルールを『戦略的』に使った行為が問題になりました.

 動いているボールを打つという「ゴルファーにとって“あるまじき”行為を行った」ことに対する非難の声が大きかったのですが,本人の弁は,

「あえて2打罰を受けた。このルールを“活用”した」

「動いているボールを打った場合は2打罰を受ける」というペナルティを受け入れる前提で、「ボールが止まったところからやり直す」というメリットを選んだと話したそうです.

いわゆる「故意の反則」を選択したことになります.結局,世界中のファンからの批判を受けたミケルソンは「自分の行動を恥じ失望している。」という謝罪コメントを出すことになりました.

 サッカーにおいては,得点に絡むような場面で敢えてファウルをしてボールを止める“プロフェッショナル・ファウル”が存在しますし,バスケットボールにおいては,試合終了間際に戦略的にファウルをすることによって時計をとめる“ファウル・ゲーム”も行われています.

 ミケルソンは「戦略」として選択したのですが,動いているボールを打つという「故意の反則」に対しては,厳しい意見が大勢だったようで,ゴルフの世界では「戦略」としては認められないようです.

 決勝進出をかけたFIFAワールドカップでの6月28日のポーランド戦において,特に英BBCは「茶番」という表現で,強く日本代表チームを非難するコメントを出しています.

The match finished in farcical fashion, with both sides happy to play the ball around at the back for much of the final quarter.

 試合は,両チームとも最後のクウォータのほとんどを,ボールを回して喜ぶという,「茶番劇の様相」で幕切れとなった

https://www.bbc.com/sport/football/44439298

Japan go through but final group game ends in ‘mind-boggling farce’

 日本は予選を通過しましたが,最後のゲームは「唖然とする茶番」だった.
 
https://www.bbc.com/sport/football/44649668

 日本代表チームの西野監督は,

「チームとすれば本意ではないですけど、勝ち上がる中での戦略。こういう形も成長していく中での一つの選択だと思います」

 積極的に攻めずに,消極的な意味で「得点を取られない,イエローカードを増やさない」という,「目の前の試合に負けて,決勝進出という大きな目標を優先」という戦略という見解でした.

 将棋の藤井聡太7段は,安全策ではなくて負けるリスクを覚悟で果敢に攻める「大局観」を羽生善治名人が評価していますが,西野監督の「戦略」は,まさに安全策そのもので,「小事を捨てて,大事を取った」ようなものです.

 サッカーのゲームとしての「美しさ」を感じられないゲームでしたが,自ら果敢に攻めて勝ち取ったという「実質原理」ではなくて、「形式原理として決勝進出」を手に入れました.

 日本のお城は,守りの砦です,籠城して守り抜くことが城の大きな役目です.ただ果敢なゲームプレーの中で,相手の攻撃に対して華麗に守るというわけでもなく,「ただただ後方でボールを廻して喜んでいる茶番」が,ほんとうにスポーツマンとして「守り抜く」ことになるのか・・・厳しい目で世間から見られた結果となってしまいました.

 結局,今朝のベルギーとの試合で,後半すぐに2点リードした後に,3点を許して敗北してしまいました.

大事の前の小事・・・これも戦略と戦術の関係を言い得て妙なフレーズです.

赤穂浪士の神崎与五郎の逸話として・・・

与五郎が江戸に向かう道中,箱根の辺りで,丑五郎というヤクザ者の馬子に「馬に乗れ」と絡まれたが、与五郎の断る様子を見て腰抜け侍と調子に乗って悪態をついた上に丑五郎が「詫び証文を書け」と凄んできた。大事の前に騒動になること恐れた与五郎は、おとなしく詫び証文を書いたとのこと,これを見た丑五郎は笑って立ち去ったということです.その後、赤穂浪士の討ち入りがあり、その中に神崎与五郎がいたことを知った丑五郎は己を恥じて出家の上、神崎を弔ったという話.

 大事をなすには小事にも気をつけ油断してはならない,と感じるときに,この忠臣蔵のエピソードを思い浮かべます.

大学病院

母親の体調が芳しくないので、大学病院での診察の付き添いに行ってきました。

朝一番の授業を一コマしてから、すぐに電車に乗って、神戸駅からタクシーで、普段タクシーを利用することがないので、久しぶりにタクシーに乗りました。

神戸大学医学部付属病院、元々は明治2年に設立された神戸病院が発祥となるようです。設立当初から病院として医師の養成課程もあったようで、明治9年には神戸病院附属医学所が出来、明治15年には兵庫県立神戸医学校が開設されています。明治33年には現在地に移転して現在に至っています。神戸医学校は政府の方針で数年で閉校となっていましたが、昭和19年に兵庫県立医学専門学校(旧制・医専)、そして戦後すぐの昭和21年には、医師と教員養成は大学で行なうというGHQの方針で、予科3年を含めた7年制の兵庫県立医科大学(旧制・医大)となって、昭和27年には兵庫県立神戸医科大学(新制・医大)、そして国立に移管されて神戸大学医学部(医学部)となったのが昭和39年です。

 医大の時代が長かったので、今でも医大や医大病院と呼ばれることがあります。

 掛りつけのの医師の紹介状を持って「地域予約窓口」へ
 

 総合内科とペインクリニックでの診察に付き添いました。総合内科では、あれこれと医師が問診をして、時系列的にまとめて、結構、的を得た問いをしながら診断を進めています。素晴らしい問答法を目の当たりしているような気がしました。

 診察が終わって、会計は窓口ではなくて、ディスプレーで番号が表示されると精算機で会計を済ますシステムです。

 子どもの頃、古い建物だった頃の医大の薄暗い地下に食堂があって、食事をした記憶がありますが、建物は建て替えられて、地下にレストランがありました。親子丼は焼いた鶏肉で香ばしい香りがしていました。