偲ぶ会

8月31日に他界した父の葬儀は、9月2日に身内だけの家内葬でした。父の好きだった音楽をかけた音楽葬・・・

葬儀からちょうど2ヶ月となる今日・11月2日に、父を偲ぶ会を持ちました。場所は舞子ヴィラ、旧・有栖川宮の別邸跡です。さらに遡れば嘉吉の乱の戦場となった赤松氏の烏崎城のあった場所です。最上階の会場からは、明石海峡を挟んで淡路の島影を展望できます。

四十数名の方が出席するので、会場は、ちょっと手狭な感じがします

 父の思い出の品や、アルバムを展示しました。

秋も深まりましたが、ガラス越しの陽光は眩しく感じます。

 いろいろな方々が、それぞれの方法で父を偲んでいただきました。懐メロが好きだった父に、アコーデオンの演奏をしていただいた方もいらっしました。

 料理が運ばれて・・・創作フランス料理です。

 アコーデオンを伴奏にして、ご夫婦で唄を披露していただきました。これは母のリクエストです。

 父への思いを言葉で語ってくれた方もいらっしました。

 父は碁が好きで四段の腕前、碁の相手をしていただいて方は、ハーモニカの演奏を披露してくれました。父の好きだった曲・・・

 メインディッシュ、柔らかいお肉でした。

 ギターの演奏と共に、父の思い出話をしていただきました。

デザートが運ばれて・・・

 ウクレレの演奏で、父の思い出話を語っていただいた方も・・・

 お昼が過ぎて、海峡の海面に秋の日射しが照り輝いて・・・綺麗でした。

 偲ぶ会も終わりに近づいて、ワイワイザワザワ、互いの近況や父との思い出話で盛り上がっていました。

 

死を生に変化させる努力

手元にある漱石全集の日記の中に、娘ひな子の突然の死に際しての漱石の思いが綴られています。

  昨日は葬式今日は骨上げ、
  明後日は納骨
  明日はもしするとすれば待夜である。

  多忙である。
  然し凡ての努力をした後で考へると
  凡ての努力が無益の努力である。
  死を生に変化させる努力でなければ
  凡てが無益である。

  こんな遺恨な事はない。・・・

    明治44年 11月29日 漱石日記より

 8月31日に父が他界しました。葬儀が終わってしばらくして、漱石が娘の突然の死を書き綴った日記があったことが頭を過ぎりました。漱石にとっての「死を生に変化させる努力」は、どのようなことだったのかをいろいろ考えていましたが思い及びませんでした。

 新約聖書の中に、イエスの言葉として、

 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。

 ヨハネの福音書11章25節~26節

「死を生に変化させる努力」は、人類が文化を持ち、そして文明を築き上げた時からの大きなテーマかもしれません。

宗教や医学だけではなく、寿命を延長させる様々な技術や学問が、その根底に「死を生に変化させる努力」があったのかもしれません。

 漱石が日記に記した「死を生に変化させる努力」という言葉に、しばらく対峙したいと思っています。 

黙祷 -神戸市震災24年追悼の集い-

今朝の5時46分で、阪神淡路大震災から24年になります。

5時46分に、神戸の東遊園地での「神戸市震災24年追悼の集い」での黙祷に参列しました。

 竹灯ろうに加えてペットボトルの灯ろうも加わっていました。

 静かな朝の祈りのひとときでした。 

「黙祷 -神戸市震災24年追悼の集い-」のページを作成しました。
http://itsumi.citykobe.jp/20190117/ 

大嘗祭

今日は秋篠宮文仁親王の誕生日です。誕生日に際しての記者会見で大嘗祭に関してのコメントが各紙のトップを飾っていました。

 皇室の神道儀式を国費で行うことに関しての皇室の意見を、宮内庁がしっかりと対応できていなかったのかなあ~と各紙を読んで感じました。天皇の引退に関しても、直接国民に「お気持ち表明」をされたことに違和感を感じましたが、どちらも「政治的発言」という見方をすることは、ちょっと見当はずれの批判ではないかとも思います。

 古くは太平洋戦争の終戦に際する「玉音放送」のように、政府を介さない「国民の象徴」というような捉え方をしました。

乃木

 昨日の9月13日は、乃木希典が妻・静子と共に明治天皇の大葬があった日に殉死して日です。乃木希典は明治時代の陸軍大将で、西南戦争,日清戦争,日露戦争に従軍しています。日露戦争では,水師営においてロシアの将軍ステッセリと会見したことが唱歌『水師営の会見』となっています.戦争に勝った日本の代表として、敵の将軍のステッセリに対して礼を重んじて扱ったことが、当時のヨーロッパで高い評価を受けていました。また、学習院の院長として、昭和天皇の幼少期の教育に携わったことでも有名です。

 今朝、黒板に「乃木」と書いて、「何を連想しますか?」と問い掛けると「乃木坂」という答えが返ってきました。確かに乃木大将の住んでいた家の前の坂が、乃木大将の死後に「乃木坂」と命名され、今は乃木神社の前の坂になっていますが、でも「乃木坂」と乃木大将とは結び付かないようです。

 当時の日本にはテレビもラジオもないので、乃木大将の殉死の報は、翌朝の新聞で知られることになりました。漱石の「こころ」でも、「先生」が新聞で乃木大将の死を知る場面が、大きな意味を持って書かれています。

「私は殉死という言葉をほとんど忘れていました。 平生使う必要のない字だから、記憶の底に沈んだまま、 腐れかけていたものと見えます。妻の笑談を聞いて 始めてそれを思い出した時、私は妻に向ってもし自分が 殉死するならば、明治の精神に殉死するつもりだと 答えました。私の答えも無論笑談に過ぎなかったの ですが、私はその時何だか古い不要な言葉に新しい 意義を盛り得たような心持がしたのです。
 それから約一カ月ほど経ちました。御大葬の夜 私はいつもの通り書斎に坐って、相図の号砲を聞き ました。私にはそれが明治が永久に去った報知のごとく聞こえました。後で考えると、それが乃木大将の永久に 去った報知にもなっていたのです。私は号外を手にして、思わず妻に殉死だ殉死だといいました。
 私は新聞で乃木大将の死ぬ前に書き残して行った ものを読みました。西南戦争の時敵に旗をられて以来、 申し訳のために死のう死のうと思って、つい今日まで 生きていたという意味の句を見た時、私は思わず指を折って、乃木さんが死ぬ覚悟をしながら生きながらえて来た年月を勘定して見ました。西南戦争は明治十年ですから、明治四十五年までには三十五年の距離があります。乃木さんはこの三十五年の間死のう死のうと思って、死ぬ機会を待っていたらしいのです。私はそういう人に取って、生きていた三十五年が苦しいか、また刀を腹へ突き立て一刹那が苦しいか、どっちが苦しいだろうと考えました。
 それから二、三日して、私はとうとう自殺する決心をしたのです。私に乃木さんの死んだ理由がよく解らないように、あなたにも私の自殺する訳が明らかに呑み込めないかも知れませんが、もしそうだとすると、それは時勢の推移から来る人間の相違だから仕方がありません。あるいは箇人のもって生れた性格の相違といった方が確かかも知れません。私は私のできる限りこの不可思議な私というものを、あなたに解らせるように、今までの叙述で己れを尽したつもりです。
 私は妻を残して行きます。私がいなくなっても妻に衣食住の心配がないのは仕合せです。私は妻に残酷な驚怖を与える事を好みません。私は妻に血の色を見せないで死ぬつもりです。妻の知らない間に、こっそりこの世からいなくなるようにします。私は死んだ後で、妻から頓死したと思われたいのです。気が狂ったと思われても満足なのです。
     「こころ」夏目漱石 より

追憶

長野の町を訪れたのは、学生時代以来、2度目です。

今回は教育学の分野の学会発表でしたが、学生時代は工学の分野の学会発表で、新潟から日帰りで訪れています。確か研究室の先輩の車に乗せてもらって・・・

今回は、信州大のキャンパスの近くであることを地図で確認して予約したのですが、後になって、信州大の長野市のキャンパスは2つあって、教育学部と工学部とはキャンパスが異なっていました。教育学部のキャンパスは善光寺の近くで市街地の真っ只中なのに対して、工学部のキャンパスは住宅地の中で国道のバイパスの近くです。

予約したホテルは工学部キャンパスの近くで国道沿いです。今回は自転車を車に積んで、ホテルと大学の間は自転車で往復しました。

 せっかくなので、今朝、工学部のキャンパスを訪れました。自転車だと、ホテルからすぐでした。

 校舎は、おそらく建て替えられているようですが、見覚えのある木立・・・記憶がよみがえりました。はじめて学会発表をした場所です。

 もう年月も経って記憶も曖昧ですが、車で善光寺の前を通って「此処が善光寺だ!」といった光景は妙に覚えています。実際に表参道にある「善光寺」交差点が、その記憶の場所でした。

前回は車窓から通りすがりに眺めただけでしたが、今回は善光寺をゆっくり見て廻りました。

 今朝は、上信越道・長野ICに近い松代をふたたび訪れて、自転車で巡りました。昨日は急遽、戸隠を訪れたので、自転車で松代を巡れませんでした。

 松代の古い町並み、そして千曲川の川沿いの土手をサイクリングしました。

 長野ICから帰路へ・・・途中、姨捨SAから見下ろした長野市辺りの景色・・・先週の金曜日から3泊滞在した長野市の見納めです。

  帰りは、小牧から東名・名神経由ではなくて、土岐JCTから東海環状自動車道ー伊勢湾岸自動車道ー東名阪自動車道ー新名神ー京滋バイパスー新名神(神戸)区間を通りました。東海環状自動車道と東名阪自動車道、そして新名神は初めて走りました。よくわからないルートで、豊田辺りから新名神に入る亀山JCTまでは、ルートを間違えないように運転したので、かなり疲れました。

ディアスポラ~シナゴーグの前にて

今朝はJR神戸線・神戸駅で降りて、これまで元町商店街(旧・西国街道)、栄町通り~旧居留地、ハーバーランド~メリケンパーク、JR高架沿い、山手幹線、回教寺院通り・・・と、いろいろなルートを歩いたので、今日は、トアロード経由で、北野異人館通りを歩きました。

山手幹線を、中山手通り3丁目の交差点まで歩いて、そこから山手に向かうトアロードの坂道を歩きました。 

 明治12年にオリーブの苗木を植えたことに始まる国立の神戸阿利襪園(オリーブ園)跡(現在は北野ホテル)を通ると、坂もかなり急になります。車だと坂の勾配をなかなか実感できませんが、昨年自転車で、此処で息が上がりました。

現在は、神戸外国倶楽部がありますが、此処にかつてトアホテル(Tor Hotel)がありました。 

北野異人館通りは東向きの一方通行の細い道です。歩道と車道の境のポールの上部に、このような模様が・・・

 真っ白い建物の壁面に「関西ユダヤ教団」というプレートがありました。 

 この建物は、ユダヤ教のシナゴーグ(synagogue・会堂)でした。東京にシナゴーグがあるのを耳にしたことはありましたが、神戸にシナゴーグがあるのを、この建物の前に立つまで、知りませんでした。

 元々ユダヤ教では、終戦40年の、当時の西独のワイツゼッカー大統領の記念演説「荒れ野の40年」にもあるように、幕屋(ミシュカーン・mishkan)と呼ばれた移動式テント神殿を持っていました。幕屋はモーセの指示によって、ベツァレルがつくったことになっています。

 モーセによってエジプトを出て、シナイ半島の荒れ野を40年間彷徨った後、ヨルダン川を渡った後はヨシュアが指導者となりますが、ヨシュアの後は、士師(Judge)がイスラエルの民の指導者として、預言者サムエルまで続き、そしてイスラエルの民は国王をいただくようになります。

 ダビデ王の子・ソロモンによって紀元前10世紀に神殿(ソロモン神殿)が建設され、その後、バビロン捕囚からの解放後の紀元前6世紀にゼルバベルによって再建された第二神殿、そしてヘロデ大王によって大拡張されたヘロデ神殿・・・ユダヤ教は神殿を中心とする宗教となった経緯があります。

 紀元70年、ユダヤ戦争においてローマ帝国軍とアグリッパ2世によって神殿を破壊され、現在残っているのは、神殿を取り巻いていた外壁の西側の部分だけで、これが「嘆きの壁」と呼ばれています。これによってユダヤ教は、神殿を中心とする信仰生活を奪われたことになります。

 ディアスポラ(Diaspora)・・・神殿を失ったイスラエルの民は、各地に散らばって、シナゴーグと呼ばれる会堂で、聖書(モーセ五書等の所謂旧約聖書)の朗読と解説を中心とするコミュニティーの信仰へと変遷して現在に至っています。

 神戸のシナゴーグの前に佇んで、荒れ野の40年における幕屋、イスラエル王国の樹立と壮大な神殿、そして嘆きの壁とディアスポラ・・・走馬灯のように歴史が頭の中で駆け巡りました。

 異人館が立ち並ぶ、観光化された北野異人館通りを歩いて・・・

 かなり大回りをしたので、加納町3丁目の交差点から、三ノ宮駅に向かって、一駅電車に乗りました。

 万歩計では
・歩数 17908歩
・歩行距離 13.2km
・階段 720歩
・早歩き 10895歩
・活動エネルギー 918kcal
・総カロリー  2579kcal
・燃焼脂肪量 49.4g

今日の活動量計は、
・脂肪燃焼 1時間38分
・有酸素運動 5分
・無酸素運動 0分
・活動カロリー 762kcal
・総カロリー 2483kcal
・歩数    17078歩

俳優

 俳優、この言葉を耳にして思い浮かぶ俳優は・・・加藤剛です。私にとって、もっとも俳優らしい俳優は加藤剛です。

 加藤剛と言えばテレビドラマの「大岡越前」が有名のようですが、私にとっては、古い大河ドラマ「風と雲と虹と」において、平小次郎将門を演じた加藤剛が印象的です。そして灯台守の映画「新・喜びも悲しみも幾歳月」の加藤剛・・・

 手元には、朗読のLPレコードがあります。高村光太郎の「智恵子抄」の朗読です。おそらく学生時代に買ったモノで、幾度かの引っ越しで手放したレコードが多い中、手元に残っています。ただ、レコードプレーヤがないので、随分聴いていません。

 神戸に越してから購入した新潮カセット文庫の、同じく高村光太郎の「智恵子抄」の朗読テープです。 

 今日、加藤剛が先月の6月18日に亡くなったとの訃報を耳にしました。

 久し振りに、加藤剛の朗読を聴きました。