流行感冒

ここ一ヶ月ほどの間、ニュース番組では新型肺炎の関連が大半を占め、身近な生活においてもいろいろな影響が出ています。

志賀直哉の作品に「流行感冒」という短編があります。

千葉の我孫子に住んでいた頃に、流行感冒が流行って、志賀直哉の家の者が罹って、ひじょうに神経質になった自分自身のことを書き綴った作品です。

 志賀直哉自身は、流行感冒に対してひじょうに神経質になっているのに対して、周囲の者はそれほど神経質ではなくて、それに対して苛立つ自分自身のことを写実的に描いているのが面白い作品です。

 人混みの多い処に出掛けずに、とにかく他者との接触を避けるというのは。現在の新型肺炎にも通じるものがあるというか、基本中の基本かもしれません。

 大正中期頃の作品で。おそらく「スペイン風邪」のことだと思いますが、スペイン風邪の感染者は当時は約5億人以上と言われて、、死者も1億人近くになったようです。この当時の世界の人口が約20億人と推定されるので、全人類の約4分の1ぐらいの感染率だったようです。

 今の新型肺炎、まだまだ収束する気配はないようで、社会全体が自粛モードに入っているように思います。

啓蟄

 今日は啓蟄,冬籠りをしていた虫が這い出る頃で,厳しい寒さが緩んで,日の光で地面が温まり,冬眠していた虫たちが穴から出る時節です.

 今年は暖冬気味で,街中で氷が張ったり氷柱を目にした記憶がありません.柳が芽吹く時期が啓蟄ですが,もう街角の桜の蕾が膨らみかけています.

enlightnment(黎明)

旧約聖書の創世記の冒頭で,神が暗闇の世界で Let there be ligh(光あれ)との言葉で,光が顕れ,そして光と闇を分けたことで,晝(昼)と夜が生まれた・・・とあります.

And God said, Let there be light: and there was light.
And God saw the light, that it was good: and God divided the light from the darkness.
And God called the light Day, and the darkness he called Night. And the evening and the morning were the first day.
 KingJamesVersion Genesis 1:3-5

神 光あれと言たまひければ 光ありき
神 光を善と觀たまへり 神 光と暗を分ちたまへり
神 光を晝と名け 暗を夜と名けたまへり 夕あり朝ありき 是首の日なり
 文語訳聖書 1章3節ー5節

朝の出勤時間帯と夕方の帰宅時間帯が,ちょうど闇から光,光から闇の狭間の時間帯で,黄昏(誰彼)時や,或いはカワタレ(彼誰)時といわれる時間帯,薄暮(dusk)や黎明・夕闇とも言われています.

夜明けの兆しさえ見えない朝6時過ぎ,布引の滝から小野浜海へと流れる新・生田川の川面は,街灯の高圧ランプで輝いていました.

少し歩くと・・・南東の空の端がオレンジ色に染まって広大なグラデュエーションが広がっていました.

そして帰路,駅前からの,西の空の長めです.街灯が点灯して,上空は暗雲で覆われて,西の空が青から紫色へと移ろいでいました.

安保

今日は、ちょうど60年前の1960年(昭和35年)1月19日にワシントンで新安保が調印された日です。

安保・・・あまり最近は耳にすることがないフレーズですが、子どもの頃に、テレビのニュースで見掛けた記憶があります。

60年安保・・・サンフランシスコで1951年(昭和26年)に調印された「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約(Security Treaty Between the United States and Japan)」が、1960年(昭和35年)にワシントンで調印された「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約(Treaty of Mutual Cooperation and Security between the United States and Japan)」の改訂に関しての反対運動ですが、残念ながら生まれる前の出来事です。樺美智子さんの死が象徴的に報道され、随分後になって学生時代に60年安保を題材にした小説を借りて読んだ記憶があります。調べると・・・奥浩平さんの「青春の墓標」でした。樺美智子さんに影響を受け、そして70年安保の大きな渦に巻き込まれた高野悦子さんに影響を与えたとされています。

 新安保締結から10年、10年間の期限での自動延長を阻止しようしたのが、いわゆる70年安保です。調べると昭和43年頃から昭和45年頃に安保闘争が続いていたようです。子どもの頃の記憶は、この70年安保になります。大学に進学すると学生運動に巻き込まれるのかなあ~と、子ども心に思っていた記憶があります。70年安保では、高野悦子さんの日記「二十歳の原点」が頭をよぎります。一本のカーネーションが描かれていますが、これは「青春の墓標」を著した奥浩平さんが睡眠薬を服用して自殺した時に、手に一輪のカーネーションが握りしめられていたことに由来するのかもしれません。

高野悦子さんの「二十歳の原点」を読んだのは、17~8歳の頃だったと記憶しています。今でも手放さずに手許に置いています。そして、「二十歳の原点ノート」と「二十歳の原点序章」も借りて読んだ記憶があります。

二十歳の原点は3年前にNHKで取り上げられて、久し振りに読んでいます。

二十歳の原点_2017年2月10日のblog

四半世紀・25年の歳月

昨日・1月17日で、阪神・淡路大震災から25年の「とき」が流れたことになります。

25年・四半世紀の「ときの流れ」というのが、実際の歴史でどれぐらいになるのか・・・

太平洋戦争が終わったのが昭和20年、その25年後というのは昭和45年。1970年です。大阪で万国博覧会が開催されて、その6年前には東京でオリンピックが開かれています。25年の間に、敗戦、戦後、高度成長と、日本の歴史の中で、庶民レベルではもっとも目まぐるしい四半世紀だったのかもしれません。

1575年に長篠の戦いが織田信長・徳川家康連合軍と武田勝頼軍の間で起こりました。その25年後は1600年で関ヶ原の戦いです。この25年の間に、織田信長が覇権を握り、本能寺の変の後は豊臣秀吉が実権を握って天下統一して関白となって、秀吉の死後には徳川家康が地盤を固めて、そして関ヶ原の戦い・・・激動の戦国時代も、目まぐるしい四半世紀だったと思います。

幕末・明治維新の四半世紀にあてはめると、1853年に黒船来航、安政の大獄、桜田門外の変、尊王攘夷派が台頭して、薩長連盟が結ばれ、大政奉還、そして戊辰戦争の混乱と共に明治維新を迎えて、鉄道が敷かれて、郵便制度が出来、近代的な学校が出来て、高等教育機関も誕生し、そして西南戦争が1877年・・・これで江戸時代と決別したのかもしれません。1853年の黒船来航から25年後は明治11年・1878年で株式取引所が出来て、資本主義経済のスタートを切ったような年です。この幕末・維新の四半世紀も激動だったように思います。

・・・震災から25年、震災当日のことを2か月半後の3月31日に綴った文章が残っています。

 1月17日の未明、ひっくり返るような揺れの中に冷静に思考することもできず、恐怖感から、ただただ布団の中に身を横たえていました。曙光の気配さえなく、街灯も消え、ただ闇が支配していました。懐中電灯の備えもなく、ろうそくとマッチをようやく探し出してマッチをすった瞬間、薄暗い中に、ひっくり返った家具の中に横たわっていた自分を見ました。

 1月17日の朝、一番印象に残っていることは、なにごともなかったかのように東の空が明るくなり、曇り空の中に夜が明けたことです。自然な、あたりまえの出来事が、なぜだか不自然に感じ、そして、とても尊く、ありがたく感じました。

        人が こんなに つらいのに
            主よ
        海が あまりに 碧いのです。

         長崎 出津の海を望む丘の上の歌碑・遠藤周作

 私は神戸の西の端、明石海峡を挟んで淡路島を望む垂水区に自宅があり、本務校は神戸の東の端、芦屋に隣接する東灘区にあります。自宅の被害は、罹災証明書では一部損壊でしたが、本務校近辺は被害の甚大な地域で、傾いたビル、全壊した木造家屋が続いています。

 本務校が避難場所と遺体安置所となった関係で、生き残った方々と、いのちを失った方々(ご遺体)のお世話のため、2月末まではほとんど泊まり込みの毎日でした。いのちの重さを身体全体で感じました。教室の床に置かれたご遺体に安らかな表情はなく、髪の毛の中まで土埃にまみれ、体の一部を失い、鬱血で変色したご遺体を前にして言葉はありませんでした。静まり返った夜中に線香に火をつけながら、あるいは棺桶に釘を打ちつけながら、自分の中にいのちがあるということが、とても不思議に思えました。

 遺体安置所であったと同時に、避難所でもあったので、ずっと感傷的になっているわけにもいかず、食事の確保、トイレ・衛生面の配慮を、何もないところで工面せねばならず、死のstaticと生のdynamicの狭間で揺れ動いていたのが最初の1週間程でした。

 lifeという言葉の持つ様々な意味(いのち、人生、生活 etc.)を今回の地震で考えさせられました。いま、家屋やビルの取り壊しが春の日差しの中で進んでいます。家族を失い、自宅を失った方々にとって、<いま>と<これから>が、lifeを模索する時期です。

March 31,1995


        「沈黙の碑 長崎・出津の海を望む丘の上」

enlightenment

enlightenment ・・・ 本来は、光が降り注ぐこと、光に照らされて明るくなることを指し示すような意味を持った言葉ですが、実際にはenlightenmentという言葉は、光に照らされて明らかになるような状態を抽象的に概念化したよな、啓蒙や啓発と言う訳がつくような意味でもっぱら使われています。

 本来は、物理的な光の照明(しょうめい)の意味を持っている言葉ですが、実際には、真理の光が射し込み悟るような意味としての照明(しょうみょう)という意味を指し示す言葉になっています。そして本来の照明(しょうめい)は、lighting が使われています。

 1年でもっとも日の出の時刻が遅い時期です。通勤途中は、まだ夜明け前、東の空が、まさにenlightenment・・・暁光で彩られています。深紫の空に、色温度の低いオレンジ色が忍び寄るような感じです。

 東の空が低い雲で覆われている時は、雲が曙光が照らされて、夜明けの兆しを感じるようなenlightenmentの世界です。 

 最近、今まで水銀灯だった街中の街頭が、LED照明に急速に置き換わっています。LED照明の光り輝く白色の光は、演色性も良く、照明(lighting)としての物理的な性能は申し分ないです。でも・・・白熱灯の放射光や、水銀灯のアークの眩さのような慣れ親しんだ情景は、LED照明には感じることができず、無機質的に、ただただ明るいだけのように感じてしまいます。

 一昔前までは、屋外照明は青白い水銀灯やオレンジ色の高圧ナトリウム灯、そしてトンネル照明は更に色温度が低くて演色性の悪い低圧ナトリウム灯でした。ある意味、暗闇や夜を演出するような独特の雰囲気があったような気がします。それが高効率の蛍光灯が現われ、さらにLED照明がとってかわっています。昼間と同じような光景が、夜も・・・

 気になって、放電ランプを探すと、意外に少数派となって、なかなか見つけることが出来ませんでした。やっと見つけたのが、道路照明の高圧ナトリウム灯でした。背景に、六甲山系の上の深青のッ夜明け前の空の色とのコントラストも絶妙です。

 阪急電車の高架下に水銀灯が残っていました。目には青白く映る光が、デジカメには緑として映ります。輝線スペクトル・・・

 光が織成す夜明け前の、街の貌を観察しながら、今朝も職場に向かいました。